淀殿ゆかりの 淀古城跡

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淀古城は、徳川幕府が築城した淀城の東北、500m程のところにあります。
江戸時代に築城された淀城と淀殿ゆかりの淀城は別で場所もそれぞれ異なります。

区別して淀殿ゆかりの淀城は『淀古城』と呼ばれますが遺構はなく妙教寺に石碑が建ち唯一往時を偲ばせます。

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淀駅前の商店街を抜け、納所という交差点で交通量の多い京阪国道沿いを渡ります。

淀の川は水運が盛んで、年貢などを納める納所(なっしょ)があったことから「納所(のうそ)」という地名が残っています。

五番橋を渡ると妙教寺へ着きます。

桂川と旧京阪国道の間、鳥羽街道沿いの納所(のうそ)に妙教寺(みょうきょうじ)は建つ。
かつて付近西には巨椋池が広がり、境内には淀城(淀古城)本丸が築かれていた。
幕末、鳥羽伏見の戦いの際には、付近で戦闘が行われ本堂が被弾している。

僅かに残る「淀古城址」の石碑は妙教寺鐘楼前にある。

「史跡淀古城跡 戊辰の役砲弾貫通跡」の石標、「此所は戦国時代の始細川管領家が築城し薬師堂 淀古城址 与一岩成左通淀君の居城となった淀古城の址である 

史跡 慶応四年正月四日戊辰役の際東軍砲 戊辰の役砲弾貫通跡 弾の飛来で本堂を貫通したその弾痕がある」

淀古城(よど こじょう)は、京都府京都市伏見区納所北城堀にあった城。
納所は木津・桂・宇治の三川が合流するポイントの北岸にあたりに築城され、3面を川に囲まれた天然の要害で、古くからの商業地「淀」の中核都市であった。

1582年(天正10年)6月の本能寺の変の後、『兼見卿記』によると明智光秀が淀古城を改修したと記録され、秀吉と光秀の山崎の戦いでも利用された。

秀吉の天下となってからは、1589年(天正17年)3月に、秀吉の弟豊臣秀長が淀古城を改修し、秀吉が側室茶々に与え産所とした。
これにより茶々は「淀殿」と呼ばれるようになる。

この城で鶴松が産まれるが、1591年(天正19年)に死去してしまった。

鶴松が死亡した後は、甥の秀次が秀吉の養子となるが、淀殿が秀頼を産むと秀吉と軋轢が生じ、1595年(文禄4年)、切腹。

家老でこの城の最後の城主であった木村重茲も連座、城も廃城となった。

石碑 戊辰之役東軍戦死者之碑
子爵榎本武揚書で、明治40年に京都十七日会により建立された。

側面に、「戦死者埋骨地三所一在下鳥羽村悲願寺墓地一納所村愛宕茶屋堤防-八番楳木」とある。

妙教寺では代々毎年2月4日に、八番楳木と愛宕茶屋堤防とで慰霊を行い本堂で法要を営んで来ておられる。

納所会館(京都府京都市伏見区納所妙徳寺)の前に、「鳥羽伏見戦跡」の碑があります。
この碑はかつては愛宕茶屋の埋骨の碑から20mほど南の堤防の上にありました。

この「鳥羽伏見戦跡」の碑は、昭和50年頃引き抜かれたままで転がっていました。
今は、地元の郷土史家の手で、この場所に移されました。

お寺から淀川の堤防までは目と鼻の先の距離です。
その向こうには天王山も眺められます。

ここ鳥羽街道(とばかいどう)は、京都の羅城門跡(京都市南区)から鳥羽を通り淀(京都市伏見区)へと至る街道である。
鳥羽伏見戦の際は激戦地となった。

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淀古城跡へのアクセス、行き方歩き方

京都市伏見区納所北城堀49
電話:075-631-2584/9:00〜16:00
(※本堂は事前の電話連絡で見学可能)

京阪電車京阪本線淀駅から徒歩10分。