都の裏鬼門を守護する王城守護の神 石清水八幡宮

京都府

石清水八幡宮は皇室・朝廷に、京都の南西の裏鬼門を守護する王城守護の神、王権・水運の神として篤く崇敬され、天皇・上皇・法皇などの行幸啓は250余を数える。

中世以降は勧請元の宇佐神宮に代わって、伊勢神宮と並び二所宗廟の一つとされ、また、源氏に篤く崇敬され、清和源氏の足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏などが氏神としたため武神・弓矢の神・必勝の神とされた。

今でも宮中の四方拝で遥拝される一社。
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八幡市の玄関口といえる京阪八幡市駅前。
ロータリーの中心には、エジソンの功績を称えた竹のモニュメント。
そして非核平和都市宣言碑が設置されています。

本日は先ず男山ケーブルで山上駅へ、三女神社から本殿へ、そして帰りは表参道をというコースを辿りました。

三女神社(さんじょ、さんみょうしんしゃ)は宗像三女神、多紀理毘売命(たぎりびめ)、市寸島姫命(いちきしまひめ)、多岐津比売命(たぎつひめ))を祀っており、平安時代1042年に宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請されたともいわれている。

一個石(ひとついし)、この石と本宮の間でお百度、お千度が行われていた。
鎌倉時代、元寇(1274、1281)の際には、民衆がお千度参りをした。

江戸時代、参詣の帰りにはこの石の前で拝礼していた。
亀石、お百度石、勝負石、下の駒留石ともいわれた。

三の鳥居、もとは、江戸時代、1645年、永井信濃守大江尚政により建立された。
現在のものは、1962年に再建。

100mの参道は三の鳥居から南総門まで通じており、「馬場前(馬場末)」とも呼ばれている。
参道の両脇には、楠木などが植えられ両側に石燈籠が立ち並んでいる。

参道の両脇にある石燈籠は約400基あるといわれ、かつてあった宿坊により奉納されたものでその名が記されている。

謠曲「弓八幡」と石清水八幡宮

謠曲「弓八幡」は、男山八幡宮の神徳をたたえ、威武の聖代を祝う曲である。
この謠を「弓八幡」と名づける事は、八幡大菩薩は源氏の氏神弓矢の守護神であるから弓と矢と幡との三つの兵具に訳して弓矢幡と名付けたのである。とある。

直(すぐ)な御代のためしであるこの祝言は、弓矢を以て戦勝を祝うのではなく、弓を袋に入れて武をおさめるのである。
作者世阿弥は平和論者である。

武家中心時代に於て平和論を唱え、将軍専横時代に於てとりわけて皇室を尊敬し奉る。
これが一能役者の見識であり熱情であったのである。
と謠曲大観は論じている。
本宮は、貞観元年行教和尚が宇佐八幡に参籠して神告を受け、奏請して建立したという。
         謠曲史跡保存会

社殿正面の楼門
奥には八幡造りになっている御本殿がある。

御本殿は前後二棟(内殿・外殿)になっているはずなのですが、御本殿の前に舞殿や弊殿がありますし、一番手前の楼門から回廊が出ていて、御本殿を囲っていますので中はあまり見えません。

楼門には青竹でつくった大きな矢が二本、突き刺さっている。
むろん、八幡神は武神であり弓矢の神とも称され、その象徴として戦の武器である矢、破魔矢なのであろう。

北方系植物相と南方系植物相の境界に位置する男山には、京都府指定天然記念物のクスノキの巨木があり、最大のクスノキは根周り18m、樹高30m、樹冠40mあります。

『洛陽名所集』によると、「戦勝軍利を祈り、楠千本を八幡山にうへけり」とあり、楠木正成公が建武元(1334)年に必勝祈願参拝の折に奉納したとされる樹齢700年にせまる大木です。

築地内北西隅に位置する校倉(宝蔵)は、建築年代が明確ではありませんが、文書や絵図などには江戸時代中期から存在し、類例の少ない校倉建築として、平成21年3月に石清水社・石清水井とともに京都府より文化財の指定をうけました。

若宮社
祭神・仁徳天皇は、応神の跡を継いだ16代天皇。
摂社の中で最も大きな社殿を有するが、社殿そのものは相当古い。

考古録では、「本宮鎮座の頃からの小祠で、仁徳天皇1座を祀る」とある。
中に柔和型・忿怒型2躰の神像が祀られているという。

神がもつ和魂(ニギタマ)・荒魂(アラタマ)というふたつの神格を2躰に別けて現したのかもしれない。
本殿改修時などでは仮本殿とされるなど、重要視されている社である。

おがたまの木
「招霊の木」とも言われ古くから霊力の宿る御神木として多くの神社に植えられています。
一円硬貨の表面に描かれています。

鬼門封じ
牛の角を持ち、虎の皮を身にまとった鬼が来るといわれる丑寅の方角「鬼門」(東北)を封じるために、社殿の石垣を切り取った造りになっています。

若宮殿社
考古録によれば、応神の皇女2柱を祀る故に「若姫殿」とも呼ばれ、神像2躰を祀るとある。
ただ、その名前については諸説を列記しているものの、はっきりしない。

当社では女性の守護神とされ、特に厄年の女性を護るという。
若宮社も同じだが、何時行っても、祈願を掛けた人々が奉納した黄色いタスキが社殿の柵に掛けられている。

通称「信長塀」とも呼ばれ、織田信長公が好んで採用した様式といわれています。
瓦と土を幾重にも重ねることにより、当時の築塀における課題であった鉄砲の銃撃や耐火性、耐久力に優れていたとされています。

石清水八幡宮の南総門は、かつて行われていた走馬・競馬の終点だった。
門前には、樹齢700年を超えるともいわれているカヤ(榧)が聳えている。

試行錯誤の研究を進める中、ある日エジソンは日本からのお土産として研究所にあった扇子を見つけ、その骨を使って電球を試作してみました。
するとその結果、電球の寿命は飛躍的に延びました。
そしてその扇子の骨こそが竹であったのです。

竹は繊維が太く丈夫で、長持ちするフィラメントを作るのに最適であったのです。
さっそくエジソンは「究極の竹」を求め世界中に研究員を派遣し、その中の一人であった探検家ウィリアム・H・ムーアは中国を経て日本へとやってきます。

ムーアは様々な地域・種類・成長度の竹を集める中、京都を訪れた際、当時の槇村正直京都府知事から竹の名産地であった八幡の「八幡竹」を紹介され、他所の竹と共にエジソンのもとへと送りました。

ムーアからの日本各地の竹を受け取ったエジソンはそれらを使いさらに実験を繰り返し、そしてついに、最も長持ちのする、最高の竹を発見します。
そしてその竹こそが京都・男山周辺の真竹だったのです。この竹を使用した電球は何と平均1,000時間以上も輝き続けたといいます。

その後セルローズによるフィラメントが発明され日本の竹は使われなくなってしまいますが、それまでの十数年間、日本の竹がはるかアメリカの家庭や職場、街頭を明るく照らしていたのです。

表参道 396段といわれる。

松花堂跡
表参道から影清塚の分岐点を右に上がり、石清水社へと向かう途中に江戸時代初期、松花堂昭乗(1584~1639)が営んだ「松花堂」という方丈の建っていた跡地があります。

瀧本坊の住職であった松花堂昭乗は寛永11(1634)年以前に弟子に坊を譲り、泉坊に移って隠棲し寛永14(1637)年には泉坊の一角に方丈の草庵を結び「松花堂」と称したことから松花堂昭乗と呼ばれるようになりました。

辺りを調べてみると、柵で四角に囲まれた一帯を発見。
説明書には、中露地主要部と書かれています。

松花堂弁当の発祥の地、京都・八幡で、観光がてら松花堂弁当などいかがでしょう。

江戸時代初期、京都・八幡の石清水八幡宮の社僧であった松花堂昭乗は、農家が種入れなどとして使っていた箱を改良し、中に十字形の仕切りのある器を作り絵具箱や煙草盆として使用していました。

その後、昭和初期に料亭「吉兆」の創始者が、石清水八幡宮の境内にある草庵、松花堂を訪れ、この四つの仕切りのある箱を持ち帰り、会席料理を盛りつけた、「松花堂弁当」を創りだしました。

頼朝公ゆかりの松
『男山考古録』によると、源頼朝公奉納の伝承を持つ「六本松」のことが記されており、唯一の生き残りであった松が昭和22年、落雷により焼失されてしまいました。
現在の「頼朝松」は昭和30年に奉納された2代目です。

『吾妻鏡』によると頼朝公は当宮に5度参詣していますが、そのうちの1度、建久6(1195)年4月3日には妻・北条政子と娘を連れて私的参拝、同月15日には長男・頼家を伴っての公的参拝をしています。

頼朝公49歳のとき、鎌倉から持参した6本の松の苗木を当地に植え、帰路は当地より持ち帰った松を鶴岡八幡宮の境内に植えたといいます。

二の鳥居は、男山の麓、高良神社の少し南に立っています。
古くからこの位置にあって、木造で「額」はなく、朱塗りだったと伝えられています。

元和5年(1619)に木による造り替えが行われ、そして、一の鳥居に遅れること6年目にあたる寛永19年(1642)に石造りに改められました。

八幡男山の西の麓に鎮座される高良神社(こうらじんじゃ)は石清水八幡宮の摂社であり八幡の産土神(うぶすながみ)です。 

本社の石清水八幡宮が蒙古来襲の国難に際し日本国の安泰を祈願したのに対し高良神社は八幡の町を守護する神様が祀られています。 

山麓(さんろく)の岩清水八幡宮の一の鳥居をくぐれば右側(西側)にあります。

往時は多くの堂宇が所在し山麓も壮大であり、『徒然草』には山麓を当社と勘違いした話がある。

『徒然草』 第52段「仁和寺にある法師」 仁和寺の老僧は「一生に一度は石清水八幡宮へ行きたい」と思っていた。
ついに石清水八幡宮へ行ったが、麓の高良社や極楽寺を石清水だと思い込んで、そこのみ参拝し、他の人が山を登っていたのに、自分は登らなかったという話。

「小さなことにも案内人が必要」という話で、よく中学校の教材とされる。
この逸話は、男山の山頂の石清水八幡宮の本殿のほかに、麓の摂末社も相当に壮大な造りだったことを示す。

「一の鳥居」をくぐり、右手に放生池を見て南の方向に進むと「頓宮北門」に着く。

この門はもとは昭和天皇の即位に際し京都御所にある春興殿の正門として建てられたもので、大礼終了後、昭和3年に下賜され此処に移されたものといわれている。

一の鳥居
八幡鳥居。
銅製の額「八幡宮」は、一条天皇の勅により藤原行成が書いたものを松花堂昭乗が元和5年(1619年)に書写し、打ち出したもの。

「八」の字は、向かい合った二羽の鳩が顔を外に向けた形に作られている。

神應寺
貞観二年(860年)に石清水八幡宮を勧請した行教が創建・・・徳川家代々の位牌や豊臣秀吉像・狩野派の画とともに、大阪の豪商・淀屋一族のお墓が往時をしのばせます。

五輪塔(航海記念塔)
頓宮殿から西側200mほどに日本最大級、超ド級と称される石造りの「五輪塔」が建っています。
高さ6m、下部の方形の一辺2.4mの石塔で国の重要文化財に指定されています。

この五輪塔には、刻銘がないため、誰がどのような意図で制作したのか謎のままですが、高倉天皇の御代に「宋(中国)と貿易をしていた尼崎の商人が、石清水八幡宮に祈り海難を逃れたため、その御礼と感謝のために建立した」との伝承から「航海記念塔」とも呼ばれています。

その他にも、地元では「忌明塔」ともいわれ、「亡き父母の忌明けの日に喪中の穢れを清めるために参拝した」であるとか、「鎌倉時代の武士の霊を慰めるための武者塚である」、「石清水八幡宮を建立した行教律師の墓である」など、この石塔にまつわる伝説は様々あります。

マンホール亀甲模様。

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石清水八幡宮への行き方・歩き方

石清水八幡宮公式サイト

住所:京都府八幡市八幡高坊30
Tel:075-981-3001 石清水八幡宮社務所

大阪環状線「京橋駅」または奈良線「東福寺駅」から京阪電車「八幡市駅」~男山ケーブル約3分「男山山上駅」~徒歩5分