松江藩主菩提所 月照寺

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今日から山陰の名城巡り、天気予報は雨
中国山地を越えたとたんに降り出した。

この地には洞雲寺(とううんじ)という禅寺があった。
永く荒廃していたが、松江藩初代藩主・松平直政は生母の月照院の霊牌安置所として、1664年(寛文4年)に、この寺を再興した。
浄土宗の長誉を開基とし、「蒙光山(むこうさん)月照寺」と改めた。

1891年(明治24年)、松江に訪れた小泉八雲はこの寺をこよなく愛し、墓所をここに定めたいと思っていたそうである。

不昧公愛用の名水、今日でも茶の湯に使われる。

受付を過ぎるとすぐに雷電為右衛門の手形の入った石碑があります。
雷電為右衛門とは松平家7代藩主である治郷(不昧公)が召抱えた相撲史上最強の力士。
45歳で引退するまでの生涯成績が254勝10敗で相撲史上最高勝率!(引き分けなどもあり)逸話も多く有名なところではあまりにも強くて死人がでるので『禁じ手』があったという。

六代の大亀が水を飲みに来たという蓮池。

初代直政公墓所。

高真院(直政)と大円庵(治郷(不昧))の廟門は島根県の有形文化財に指定されている。

直政公の墓所へ向かう参道、散りモミジがきれい。

直政公墓所への門。

直政公は家康公のお孫さんで境内で一番大きなお墓。

不昧公の墓は天守閣を望む場所に建てられており、歴代藩主たちと共に静かに松江城下を望んでいます。

茶人藩主として著名な7代藩主・不昧の廟門は松江の名工・小林如泥(こばやしじょでい)の作によるとされ、見事な彫刻が見られる。

初代直政公母君月照院の墓。

江戸時代前期,結城秀康の側室。
阿波国麻殖郡三谷城の三谷出雲守長基の娘で、お駒という。
慶長12年(1607)夫である秀康没後は月照院と名乗った。

14歳で初陣となる直政の大坂への出陣に当っては、躊躇するわが子に「栴檀は双葉より芳、戦陣にて勇無きは孝にあらざる也」と励まし、自ら直政の甲冑下の着衣を縫い、馬験も縫って、それにたらいを伏せ墨で丸を描き、急場の験として与えたのは有名。

もと京都の遊女上巻で、徳川家康の次男秀康に身請けされ、慶長6年直政を生んだ。

九代斉斎(なりよし)公墓、鷹殿様と言われるくらい放鷹が大好きだった。
反面、栗飯と風呂吹き大根も好物というユニークな殿様、

大亀伝説
6代藩主・宗衍(むねのぶ)の廟所にある寿蔵碑の土台となっている大亀は、夜な夜な松江の街を徘徊したといわれる。

下の蓮池にある水を飲み、「母岩恋し、久多見恋し…」と、町中を暴れ回ったという。

この伝説は八雲の随筆『知られざる日本の面影』で紹介されている。
この「母岩、久多見」とはこの大亀の材料となった石材の元岩とその産地のことである。
不昧は30キロ西方の出雲市久多見町の山中より堅牢で緑色の美しい久多見石を材料として選ぶが、この岩はかつてクタン大神(出雲大社に功有りとし本殿おにわ内にクタミ社として単独社を設けられ祀られる神)が逗留したとされる神石で、切り出しや運搬には難儀を極めたようでもある。

こうした神威を恐れた不昧公はお抱えの絵師に延命地蔵像を描かせ、残った岩に線刻し崇めている。
この延命地蔵は不昧にあやかり「親孝行岩」として現在も信仰されている。
現在ではこの大亀の頭を撫でると長生きできると言われている。

6代藩主・宗衍公墓所への門。

境内は敷石で整備されており、紅葉の散り葉が見事だ。

書院 高真殿(茶席)
木の香薫る書院でお抹茶でもいかが(名水使用)
殿様の座る上段の間。

書院庭園

美しい庭園が残されている。

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月照寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:松江市外中原町179
電話:0852-21-6056

一畑電車北松江線松江しんじ湖温泉駅から徒歩20分
松江レイクラインおよび松江市営バス 月照寺前停留所下車、徒歩すぐ

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