川越城と小江戸川越を散策

江戸時代には川越藩の藩庁が置かれた。
別名、初雁城、霧隠城。
関東七名城・日本100名城。

通常、川越城の名称を表記する場合、中世については河越城、近世以降は川越城と表記されることが多い。

昨日の泊りは水戸、早速、千波湖を早朝散策。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

途中、カルガモ親子に遭遇、近づいても逃げません。
かわいい!

三芳野神社は本丸御殿の東、天神曲輪に鎮座する。
童謡「とおりゃんせ」の発祥の神社と伝えられる。

三芳野神社に「初雁の杉」があった。
毎年同じ時期に北から初雁が飛来し杉の真上で三声鳴き三度回って南に飛び去った、という故事により初雁城とも呼ばれる。

太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折も初雁が来て鳴いたことから道灌が「初雁城」と命名した、という。
3代目の初雁の杉が神社の社殿裏にある。

1624年(寛永1)、藩主酒井忠勝が川越城の守護社として造営した。
もとは城内にあり、庶民の参詣が許されたのは年一度の大祭の日だけ。城内警備の武士のあいだを、緊張しながら参詣する庶民の様子を童謡に歌ったものといわれる。

三芳野神社は、川越城の鎮守として寛永元年(1624)、時の城主酒井忠勝によって再建された。

この天神様は、わらべ唄「とおりゃんせ」発祥の地といわれています。
川越城内にあったため、一般の人の参詣はなかなか難しく、その様子が歌われて
いると伝えられている。

川越城の七不思議
1.霧吹(きりぶき)の井戸
2.初雁(はつかり)の杉
3.片葉の葦(あし)
4.天神洗足(みたらし)の井水(せいすい)
5.人身御供(ひとみごくう)
6.遊女川(よながわ)の小石供養
7.城中蹄(ひずめ)の音

川越城は、長禄元年(1457)に、上杉持朝の命により、家臣の太田道真・道灌親子が築いたといわれています。
江戸時代には江戸の北の守りとして重要視され、代々幕府の重臣が城主となっていました。

現存する建物は嘉永元年(1848)に建てられたもので、本丸御殿の一部として玄関・大広間・家老詰所が残り、川越藩17万石の風格をしのばせています。

現在、城址の大部分は市街地となっており、往時の姿を想像するのは難しいが、本丸御殿の一部(大広間と玄関)が現存している事は特筆に値する。

本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城の他には高知城のみで、貴重な遺構である。

本丸御殿玄関をあがった所、大広間など6室の周囲にめぐらされている板敷きの廊下。

庭の小石は家老詰所への廊下。

家老用部屋
光西寺に残されている絵図には「御老中」と書かれている。
10畳敷で、床の間と床脇を備えている。

川越藩は、江戸幕府にとって有力な大名であった為に、藩主は、年間を通じて江戸に詰めており、川越藩の政務は、家老を中心として行われていたと考えられ、この部屋が、その中心であった。

床の間を背にした武士を中心として協議が進められている。

櫛形塀[くしがたべい]
御殿玄関の両脇に配された塀。
屋根は瓦葺、櫛形の窓には格子がはめ込まれている。

二の丸跡に建つ市立博物館、道路の反対側は本丸。
博物館敷地内には霧吹の井戸がある。

霧吹の井戸~昔、川越城の片隅に、霧吹の井戸と呼ばれる井戸があり、いつもは井戸にふたがしてあり、敵が攻めてきて城が一大事という時にこのふたをとると、中から霧がたちこめ、たちまち城を包み隠してしまったという。

川越城は、こうした伝説から一名「霧隠城」とも呼ばれた。<川越城の七不思議の一つ>

新河岸川の舟運は寛永15年(1638年)正月に川越大火で仙波東照宮が焼失、その再建のための資材を江戸から内川(新河岸川)を利用して運んだのが最初とされる。

川越五河岸は、新河岸川の上流に設置された扇・上新・牛子・下新・寺尾の5つの河岸場で、城下町・川越の外港として機能した。

城の北に赤間川(現新河岸川)が流れ、さらに北を入間川・越辺川などが流れて外堀の役割を果たす。

城の南は遊女川(よながわ)の湿地帯であった。
武蔵野台地の北端の丘陵に位置し、東方を睨んだ自然の要害に位置している比高5~6mの平山城である。

朝霧が立ち込める河岸、清々しい小江戸の風景。

奈良・平安時代は、入間川西岸地域は三芳野の里ともいわれ、「伊勢物語」では「みよし野の田の面の雁もひたぶるに君がかたにぞ寄ると鳴くなる」と歌われています。

天海僧正坐像
川越城近くには天海僧正ゆかりの喜多院がある。

幕府の庇護が篤く1638年(寛永15年)の川越大火で焼失すると3代将軍徳川家光の命で江戸城の建物が移築された。

客殿には徳川家光誕生の間と言われている部屋があり、家光の乳母春日局の間を含む書院、庫裏も移築されている(全て国の重要文化財)。

川越城中ノ門堀跡
江戸時代、川越城は、江戸の北の守りとして重要視され、寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は、城の大改修を行いました。

この際に、中ノ門堀が造られたと考えられています。
堀は、現在の市役所付近に当たる西大手門側から本丸方向への敵の進入を阻むために巧みに配された堀のひとつであり、堀と堀の間に中ノ門がかつて存在していました。

堀跡は、発掘調査に基づき、構築当初の勾配を復元しています。

蔵造りの町並み
明治26年3月、川越は大火に見まわれ1,033戸が焼失し、数軒の蔵が焼け残りました。
この事から蔵は火事に強いと言う事になり、以降次々に蔵が建ち始めました。

そして、最盛期には100軒もの蔵が建ち並んでいたそうで、現在でも30軒程の蔵が残っています。

この、蔵造りの町並みには電柱、電線が1本もありません。
文化遺産が立ち並ぶ街の景観を損なわない様に、平成に入ってから全て地下ケーブルにしたという。

建ち並ぶ蔵の中の1軒には、蔵造り資料館があります。
明治時代の煙草卸商の店舗だった蔵を保存し、一般に公開しています。

蔵造り資料館の近く、メインストリートから右へ折れて路地に入ると、川越のシンボルとも言うべき時の鐘が見えてきます。

江戸時代の初め頃に、川越藩主が建造させたのが最初で、当時の庶民の時計代わりでした。
現在の物は川越の大火後に作られた物を電動式にして、6時、12時、15時、18時にそれぞれ時を告げています。

小江戸横丁では紫芋ソフトを食べている人が多くいました。

菓子屋横丁は、明治の初め鈴木藤左衛門がこの地に住んで、江戸っ子好みの気どらない駄菓子を製造したのが始まりといわれ、江戸時代には、養寿院の門前町として栄えたところです。

黒い蔵造り風の建物は一見すると何かのお店のようだが、前に黒い大きなポストがある。川越元町郵便局です。

川越城大手門跡は現在、川越市役所庁舎前となっており、川越城を築いたとされる太田道灌の像が建っている。

小江戸の粋を感じる消化栓の蓋

カラーマンホールは川越名物、『蔵造りの街並』と『時の鐘』がデザインされています。

独り言

川越駅で入手できる無料の観光マップの片隅に「交通安全も江戸しぐさで!」の囲み記事があり、道ですれ違う時、左肩を路肩に寄せてぶつからぬように歩く「七三の道」とか、道ですれ 違う時の気配りする「肩引き」、雨の日お互いが濡れぬ配慮の「傘かしげ」の江戸しぐさが紹介されている。

小江戸川越の蔵造りの町並みは、昔のままの大変狭い幅員ですが、現在、主要道路として交通量も大変多い道路となっています。
観光客の皆様には大変ご不便をおかけしますが、道路を渡る際は横断歩道をご利用いただくなど、交通ルールを守って、楽しく安全な観光をされますよう、ご協力をお願いします。
とあった。

現代では忘れられてしまった江戸しぐさ、もう一度思い出してみたいものだ。

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川越城へのアクセス、行き方歩き方

東武東上線・JR川越線「川越駅東口」および西武新宿線「本川越駅」から東武バス「上尾駅西口行き」、「埼玉医大行き」又は「川越運動公園行き」で約10分「市役所前」下車、徒歩約5分

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