断崖を利用して築いた高石垣の名城 仙台城

雅称は「青葉城」。
「五城楼」との別名もある

慶長年間に伊達政宗が築造してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に渡り伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。
国の史跡に指定されている。

このレリーフは寛文8~9年(1668~1669)に製作された絵図を元に、当時の仙台城と城下の町割りを克明に描いたものです。
絵図が作られた年、仙台藩は世にいう、「伊達騒動」の渦中にありました。

事件の立役者、原田甲斐や伊達安芸等の屋敷も絵図に示されております。
この事件は、関係者の処罰、伊達62万石は存続という形で、寛文11年に尾張を告げました。

仙台城の模型図
広瀬川が蛇行しながら麓を流れる標高100mを超える絶壁の上に本丸があり、岐阜城に似た中世的な城地選定である。

東側は河岸段丘で緩やかに河岸につながるが、南は絶壁、北から北西にかけては深い渓谷、そして西は険しく歩行困難な密林に連なる。

支倉 常長(はせくら つねなが、1571年 – 1622年8月7日)
慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた。
幼名は與市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。

この人物は一般に「支倉常長」と称されるが、同時代に彼の諱を「常長」と記述した例はない。

自筆史料の署名も「六右衛門」「六右衛門長経」とされており、自身が「常長」を称したことはなかったと推定される。

「常長」という諱が登場するのは、彼の死後、支倉家が一時断絶して再興した後に編纂された支倉家の系図である。

後世の子孫が、先祖がキリシタンであったことを隠すため、「長経」の使用を忌避し、「常長」と偽って記録した可能性がある。

慶長17年(1612年)、常長は第一回目の使節としてサン・セバスチャン号でソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。

再度仙台へ戻り、現・石巻市雄勝町で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。

しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、そのこともあって通商交渉は成功することはなかった。
常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。

「昭忠塔(忠魂碑)」金鵄原型(トビ)
西南の役、京城事変、日清戦争等で東北各地の将兵が多く戦死し、この死を悼み慰霊のため1902年に建立された

東北地方太平洋地震(2011.3.11)の被害で頂上にあった鳶の像は無残に折れ、落下
仙台市は破壊撤去するそうです。

伊達政宗の騎馬像 小室達作。


馬上少年過ぐ

馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の赦す所
楽しまずして是を如何にせん

戦場に馬を馳せた青春の日々は遠く過ぎ去った。
今や天下は泰平。
俺の髪の毛はすっかり白くなった。
何の因果か、戦国の世を生き延びたこの身である。
老後くらい好きに楽しまないでどうするのだ。
天もきっとお許しになるだろう。
伊達政宗が、晩年の述懐を詠んだ詩とされます

生まれてくるのが遅過ぎた。
戦国の争乱期に遅れて僻遠の地に生まれたが故に、奥羽の梟雄としての位置にとどまらざるをえなかった伊達政宗の生涯を描いた『馬上少年過ぐ』。
政宗の前に立ちはだかった豊臣秀吉は、全国の軍を引き連れて北条攻めに向かう。
天下人の前に成すすべなし。

天守台から仙台市街を望む。

伊達政宗が築城した仙台城は約2万坪で、徳川家康の江戸城に次ぐ大きさを誇り、全国最大級の城であった。

櫓も鬼門(北東)に当たる方角は角が落とされている。

幾度となく、地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、奥羽越列藩同盟盟主として戊辰戦争を経るも、一度も戦火を見ることなく要塞としての機能を終えて、その後は明治初期から大正にかけてその大半が失われた。

明治4年(1871年)に東北鎮台が仙台城を本営にして駐屯した。
このとき本丸が破壊され、石と木が兵舎建設に流用された。

後に東北鎮台は仙台鎮台と改称した。
さらに鎮台制が師団制にかわると、第二師団が置かれた。

数少ない遺構であった大手門、脇櫓、巽門は国宝(旧国宝)に指定されていたが、太平洋戦争時の仙台空襲により焼失した。

本丸北壁の石垣の全面的な解体修理により、伊達正宗が築城した時期の石垣が地中から発見された。

この石垣モデルは埋め戻された石垣の構造を再現したもので、石質の同じ石材で積み上げています。

艮櫓跡石垣
この石垣の上に艮櫓が設置されていた。
天守閣を持たなかった仙台城の中では最も高さと威容を誇った建造物であっただろう。

現在の石垣は2004年3月に補強され積み直された物だが、その際それまで地表に露出していた第Ⅲ期の物である切石の石垣の内部に第Ⅰ期の野面積から第Ⅱ期の補修の際の石垣が発見され、都合3期にわたっての変遷が確認された。

登城路を上りきると、左側に本丸の石垣が大きく迫ってきた。
この上に本丸があった。

本丸の北側に設けられた本丸詰門(つめのもん)跡で。
2階建瓦葺で、棟には鯱瓦が敷かれ、門の内外は枡形となっていた。

また、門の両脇には三重櫓が設けられてあった。
写真の鳥居は、本丸跡に造られた護国神社のものである。

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仙台城へのアクセス、行き方歩き方

仙台城公式サイト

住所〒980-0862 宮城県仙台市青葉区川内地内
電話番号仙台市観光交流課 022-214-8259

東北新幹線仙台駅西口より市バス青葉城址循環30分、青葉城址より徒歩すぐ

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