住ノ江の桜

住吉大社界隈
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住吉川の桜並木、今年もきれいに咲きました。

昔は住吉大社の前が汀線で、細井川も入り江だった。

「細江川」の異称を持つ。

十三間堀川と通じ水運に用いられ、上住吉の浅沢神社前には船着場があったという。

また、住吉大社の南の細井川に今も架かる「御祓橋」には「小町茶屋」があったと伝わり、画も残っている。

このあたりには熊野街道が通じていた。

住吉川を進むと真ま住すみ橋が架かり、市立真住中学校があります。

211年神功皇后が住吉大社建立の際、当地を「真に住み吉」と言った故事から付きました。

姫松橋

我見ても ひさしく成りぬ 住の江の
  岸の姫松 いくよへむらむ
  (古今集九O五番 よみ人しらず)

この歌にあるように、かつてこの付近は美しい松原の続く海岸で、住吉浦とよばれていた。

毎年春には、潮干狩りで大いに賑わったといわれる。

江戸時代の中頃には新田を開発するため、両岸の入り江が埋め立てられ川として残されたものが現在の住吉川である。
 
姫松は、住吉大社社頭にある松の美称として知られ、当地の地名にも残っており橋名もこれにちなむものである。

シロバナマンサクを見つけた、珍しい花です。

住吉団地

住吉高灯籠

わが国最初の灯台として、鎌倉時代末の創建というが不詳。

もとは、現地から西約200mのところ(顕彰碑が立っている)にあったが、台風で倒壊したり道路工事で撤去されるなとで当地へ移築された。

当時は海岸近くにあたり、点灯すると十分灯台の役目を果たしたという。

住吉公園

元は住吉大社の境内で、大社の馬場があった。

公園の中央を東西に走る「潮掛け道」は、住吉大社の表参道だった。

鎌倉時代の元寇の時は、蒙古撃退のための住吉大社による住吉大神への「浜祈祷」は、住吉公園の前に広がっていた住吉の浜で行われた。

大阪府営公園としては浜寺公園とともに1873年に指定され、大阪で一番歴史のある公園となっている。

大伴氏や物部氏が本拠を置いた場所であり、古代から港湾都市であり国内流通の中心であった。

瀬戸内海を経る航路の終着点として住吉大社(大阪市住吉区)近くの住吉津や難波津が機能していた。

住吉津はヤマト王権と深い繋がりがあり、住吉津を管理していた住吉大社はヤマト王権直属の神社だった。

伝説によると・・・

源頼朝に仕えていた丹後局が頼朝の子を身籠もると、怒った北条政子は畠山重忠に殺すよう命じた。

重忠は家臣の本多次郎近常(親恒)に命じて丹後局を由比ヶ浜に誘い出すが、殺すことはできず、身代わりを立てて逃がしたのだという。

そして、丹後局は摂津国住吉に辿り着き、無数の狐火に導かれて住吉大社に至ったのだという。

社頭で産気づいた丹後局は、傍らの大石を抱きながら男児を出産。

のちに頼朝は、その子に薩摩・大隅二か国を与えた。

それが島津氏の祖・島津忠久なのだとか。

住吉大社 枝垂れ桜見納め
早朝に住吉大社を訪れた。 汐掛け道は人通りもまばら、ちょうど側道の植え込みに潅水 … 続きを読む →

川端康成が、戦後に発表した、「しぐれ」「住吉」とともに住吉3部作の一つとして数えられる「反橋」には、「上るよりもおりる方がこはいものです。

私は母に抱かれておりました」と描いており、橋の傍には康成の文学碑が設置されております。

文末にあらすじを掲載しておきます。

今は完全に内陸の市街地だが、かつては、住吉公園の少し西側を走る阪神高速15号堺線あたりまで海が迫っていた。

この海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景である「住吉模様」の地。

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