春爛漫 粉河寺の桜

和歌山県
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粉河寺参道左手にある「大神社の大クス」、環境省巨樹巨木林DBによれば、幹周/11. 42m、樹高/20m。
和歌山県下で第三位の大木。

大門から南に約1キロメートル続くJR粉河駅前通は門前町として栄えたが、県道の拡幅工事により、かつての面影はなくなってしまっている。

大門(仁王門、重要文化財) – 宝永4年(1707年)建立。
入母屋造、本瓦葺きの楼門。仏師春日作と伝える金剛力士像を安置。

天台宗系の粉河観音宗総本山。山号は風猛山(ふうもうざん、かざらぎさん)。

西国三十三所第3番札所。本尊は千手千眼観世音菩薩。伝承によれば創建は宝亀元年(770年)、大伴孔子古(おおとものくじこ)によるとされる。

粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。

清少納言の『枕草子』194段には「寺は壺坂、笠置、法輪(中略)石山、粉川、志賀」とあり、『梁塵秘抄』に載せる今様には、「観音験(しるし)を見する寺、清水、石山、長谷の御山、粉河(後略)」とある。

西行の『山家集』や、架空の物語である『うつほ物語』『狭衣物語』にも粉河寺への言及があるなど、遅くとも平安時代中期・10世紀には観音霊場として著名であったことがわかる。

平安時代後期には、その頃から始まった西国三十三所観音霊場巡りの札所の1つとして栄えた。

中門(重要文化財) – 入母屋造、本瓦葺きの楼門。
左右の間に四天王像を安置する。

棟札によれば明和年間(1764年 – 1772年)から長い年月をかけて天保3年(1832年)に完成。
「風猛山」の扁額は紀州藩第10代藩主徳川治宝の筆。

金剛力士は仏師春日の作と云われ、尊像の用材は桂の巨木。

鎌倉時代には550か坊もの子院を持ち、大勢の僧兵を擁し、寺領は4万石もあって広大な荘園を持ち、根来寺や金剛峯寺と比肩しうる大寺院であった。

戦国時代の天正元年(1573年)には境内南側の猿岡山(現・秋葉山)に猿岡山城を築き、寺の防衛を図ったが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州征伐にあい、根来寺や雑賀衆とともに抵抗したものの全山焼失し、猿岡山城も陥落した。

この時、粉河寺縁起絵巻も焼損している。江戸時代の正徳3年(1713年)にも火災があり、現在の伽藍はほとんどがそれ以降の再建である。

粉河寺庭園

国の名勝。
中門から約3メートルの高さの石段を経て本堂に至る、その両翼に土留め石垣を兼ねた石組の庭である。

緑泥片岩を主とし、琴浦(ことうら)の紫石、龍門石(りゅうもんいし)などの紀州の名石を含む、多数の巨大な岩石が変化に富む手法で堅固に、美しく組まれている。ツツジの刈込みで石の間隙をうずめ、さらにビャクシン・シダレザクラ・ソテツなどの植栽が組み合わされている。

用いられている紀州石は、雑賀崎の青石(緑泥片岩)、琴浦の紫石(紅簾片岩)、竜門山の竜門石(蛇紋岩)と多岐にわたっています。

和歌山県の紀の川市にある粉河寺の本堂の脇に植えられている桜の木。
湯浅の元祖である湯浅宗重の父、藤原宗永が植えたと伝えられています。

すでにかなり世代が代わっているようですが、湯浅のスタートとなる桜です。

本堂(重要文化財)

西国三十三所の寺院の中で最大級の堂

中門の先、一段高くなった敷地に建つ。
享保5年(1720年)建立。

本尊千手観音(秘仏)を安置する二重屋根の正堂(しょうどう)と、礼拝のための一重屋根の礼堂(らいどう)を前後に並べた形式になり、西国札所として多数の参詣者を収容する必要から礼堂部分を広く取っている。

粉河寺の本尊千手観音像は絶対の秘仏とされ、公開された記録はない。

このため西国三十三所の札所などで見かける粉河寺の本尊の模造像や絵については、それが本物と相違しているか証明できる者はいないとされている。

日本の仏教寺院では、本尊が秘仏である場合、「お前立ち」と称する代わりの像を本尊厨子の手前に安置する場合があるが、粉河寺においては「お前立ち」像も秘仏である。

本尊像は火災を避けるために本堂下の地中に容器に入れて埋められているとされる。

「お前立ち」像は年に一度、12月31日に僧籍にある関係者が掃除のために開扉するのみで、在家の者が拝観する機会はない。

なお、内陣背面(後戸)に安置された「裏観音」と称する千手観音立像は拝観可能である。

環境省巨樹巨木林DBによれば、幹周/7. 70m、樹高/20m。粉河寺本堂の東側にあります。

傍らに「踞木地」の石碑が立っています。

粉河寺の開祖・大伴孔子古が踞(うずくま)り下を通る鹿を狙った故事によります。

十禅律院 – 元は塔頭の十禅院。

寛政12年(1800年)に独立して天台宗安楽律院派の寺院となっている。

正暦元年(990年)に塔頭として創建された十禅院が、寛政12年(1800年)に紀州藩第10代藩主徳川治宝により 天台宗の寺院に改められて十禅律院として独立した。

粉河寺にある丈六堂に安置されている阿弥陀如来像 。

釈尊は一丈六尺あったっとされておりこの大きさに作られた仏像を丈六という。

「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。

1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。

紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。

これが粉河寺の始まりという。
その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。

童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。
8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。

孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。

2つ目の話は千手観音の霊験説話である。

河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。

そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。

喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。

長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。

長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。

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