秋の九州爽やかウォーキング 高千穂峡から通潤橋へ

九州

高千穂峡(たかちほきょう)は、宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井にある五ヶ瀬川にかかる峡谷。
国の名勝、天然記念物に指定されている(五箇瀬川峡谷(高千穂峡谷))。

今朝の目覚めは熊本市大津町、残念ながら雲が多く日の出は観られず。

R325を高千穂へ向かう、途中ループ橋もあったり、紅葉の山々を眺めながらの快適なドライブだ。

目的地へ着くと亀の井バスが停まっている。
日本初で最初に女性バスガイドを乗せた会社として有名だ。

油屋 熊八1863年(文久3年)7月16日 – 1935年(昭和10年)3月24日)が1928年に日本初の女性バスガイドによる案内つきの定期観光バスで別府地獄めぐりの運行を始めた。

ところで、ご当地出身の八代亜紀は、中学卒業後、地元熊本のバス会社九州産業交通(現 九州産業交通ホールディングス)のバスガイドとして勤務した後、15歳で父親の反対を押し切り上京。
銀座のクラブ歌手となり、スタンダードやポップスなどを歌った。
という経歴の持ち主だ。

寛政の三奇人の一人に数えられた高山彦九朗が寛政4(1792)年7月17日に高千穂を訪れた際、甌穴現象で出来たこの大きな岩の凹みを見て、硯石に似ているところから「神硯(みすずり)の岩」と名付けました。
のちに彼は紀行文「筑紫日誌」で、高千穂峡のことを詳しく書き記しています。

阿蘇カルデラをつくった火山活動によって、約12万年前と約9万年前の2回に噴出した高温の軽石流(火砕流の一種)が、当時の五ヶ瀬川の峡谷沿いに厚く流れ下った。
この火砕流堆積物が冷却固結し熔結凝灰岩となり、柱状節理が生じた。

熔結凝灰岩は磨食を受けやすいため、五ヶ瀬川の侵食によって再びV字峡谷となったものが高千穂峡である。
高さ80m~100mにも達する断崖が7kmにわたり続いており、これを総称して五ヶ瀬川峡谷(高千穂峡)と呼ぶ。

甌穴
岩盤からなる河床に出来る円筒形の深い穴をかめ穴、又はポットホールという。

河床の岩盤のくぼみや割れ目に渦巻きを生じ、そのエネルギーによって穴が出来、さらにその穴に入った小石が渦巻きによって岩盤を削るため、こうした深い円筒形に穴が出来る。
甌穴は現在も成長しているという。

五ヶ瀬川に掛かる3つのアーチ橋。
最も奥に神都高千穂大橋(L=300m・H=115m)、見た目に一番高く見える高千穂大橋(L=96m・H=75m)、下段は神橋(L31m・H=31.3m)のそれぞれはコンクリート・鉄橋・石橋のアーチ橋で平成・昭和・大正時代に建設された。
同じ渓谷に三本のアーチ橋が架かるのは、全国でも高千穂峡だけ。

三段橋を撮っている足元が槍飛橋で、高千穂峡の中で最も川幅の狭いところです。
昔、高千穂の三田井(みたい)家落城の際に、城を脱出した家来たちが、ここに逃げてきたとき、槍を使って川を飛び越えようとし結局、槍を手前の岸について飛んだ者だけが渡ることができたことから、この名がついたと伝えられています。

「仙人の屏風岩」を過ぎれば真名井の滝は向こうに見えている。

雨が降りしきる中鬼八の力石を右手に見て真名井の滝展望台へ向かう。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

遊歩道対岸に高さ70mの「仙人の屏風岩」がそびえ、柱状節理の断崖は圧巻。

鬼八の力石(重量約200トン)
高千穂神社の祭神三毛入野命は弟の神武天皇とともに大和に行かれますが、伝説では再びお帰りになり、高千穂郷一帯で悪行をはたらいていた鬼八を退治し、この地を治めたといわれています。
この時、鬼八が三毛入野命に投げ、力自慢をしたという石といわれています。

振り返れば仙人の屏風岩あたりに次の集団がさしかかる。

七ッヶ池は五ヶ瀬川の淵にあり、七つの穴が連続して池となっています。
昔は水を満面にたたえ、池の色が七色に変化しており、ここに竜神が棲んでいたのだと言い伝えられます。

三毛入野命(ミケヌノミコト)が近くを散歩されていた際、鬼八に捕らわれた鵜ノ目姫(ウノメヒメ)の姿がこの水鏡に映り、命に助けを求めた場所とも伝えられています。

神話によれば天村雲命(あめのむらくものみこと)という神が天孫降臨の際に、この地に水がなかったので水種を移した。
これが天真名井として湧水し、滝となって流れ落ちているといわれている。
夏場は午後10時まで滝周辺がライトアップされ幻想的な雰囲気を出している。

峡谷は貸しボートで遊覧できるようになっており、峡谷に流れ落ちる日本の滝百選の一つである「真名井の滝」の至近まで近づくことが出来る。
峡谷の崖上は自然公園となっており、その中にある「おのころ池」より流れ落ちる水が真名井の滝となっている。

真名井の滝展望台、ここから見る真名井の滝が一番きれいだ。

御橋の久太郎水神
古くより、高千穂郷を貫流する五ケ瀬川流域の要地五ヶ所に「五瀬命鵜葺草葺不合命」の御子「五瀬命」に命じられた、五人の兄弟水神の一人、「神橋久太郎水神」が、ここ三田井の御塩井に、中央守護のために配置され、鎮座したのがはじまりと伝えられている。

御橋から上流の柱状節理を見る。

高千穂峡の碑のあるあたりは紅葉真っ盛りだ。

北原白秋歌碑、若山牧水歌碑のあるあたりも真っ赤に紅葉。

北原白秋歌碑
 
 天なるやくしふる峰、高千穂の御田居の郷、真名井湧く老木がもと、照る
 玉のま澄むは見つつ、しづく石かきろふ見つつ、心處に高くはゐしか、神さ
 ぶと清くは座しつれ、今にして、我はや死にせむ、この道半ば。

 
 反歌
      ひく水に麻のをひてて月まつは
            清き河原の天地根元作りの家

 
白秋は昭和十六年三月二十九日、弟子の木俣修と来町、当時眼病のためすでに薄明状態だった。

歌は修の処女歌集「高志」の序歌として贈ったもの。
高千穂の神代川天の真名井での短歌、長歌を詠んだもので晩年の白秋の心情がよく表れている。
翌年十一月、五十七才で他界。
      昭和二十四年十一月七日建立
      建立者 北原白秋歌碑建設委員会    (現地案内板より)

若山牧水歌碑 
 
   幾山河、越さりゆかば寂しさの
         はてなむ国ぞけふも旅ゆく

 
牧水は明治十八年宮崎県東郷町に生まれ延岡中学を経て早稲田大学に入学した。
この歌は牧水が二十二歳上京以来三度目の帰省の途中、陸路中国地方を回って帰郷した時の歌で処女歌集「海の声」に掲載されている。
北原白秋とは早稲田時代級友として親交がある。
(現地案内板より)

公園内には水車小屋もあり風流だ。

玉垂れの滝
高千穂神社の天真名井(あまのまない)の水は天然の湧水で、ニニギノミコトの天孫降臨の時、この地に水が無かったので、天村雲命が再び高天原に上がられ、天真名井の水種を、高千穂、出雲、伊勢に移したという神話が伝わっています。

この高千穂の天真名井は、大ケヤキの根元から湧き出しており、高千穂峡の「真名井の滝」の水源となり、玉垂れの滝となって流れ落ちているそうです。
また古くは天真名井の下を流れる神代川の清流に「夜泣き石」があり、村に災いがある時は、石が夜にうごめいて知らせたと言われています。

おのころ島
昔この池には桜川神社(滝津の妙見社)があり鵜の鳥はこの社に仕える神聖な霊鳥であったと伝えられています。
高千穂神社の春祭りでは御神幸のおみこしがこの池を三度まわってみそぎをされます。
(現地案内板より)

月形・日形
「玉垂れの滝」の上にある半月の岩形を月形といいます。弟・素盞嗚尊(スサノオノミコト)のご乱暴に嘆き悲しんだ天照大神は、天の岩屋戸にお隠れになりますが、八百万の神々の謀り事により、再びこの世にお戻りになります。

素盞嗚尊は神々の裁きを受け、所払いとお詫びの証を造ることになりました。
尊は、天照大神を日の光る太陽として日形を彫り、自分の光は月の半分もないからと、三日月の穴を彫り、その後高天原を去り、出雲へ行かれたと伝えられています。
江戸時代末期の記録には月型・日形の絵図も残されていますが、今は日形は崩壊し月型のみが残っています。 (現地案内板より)

前方の紅葉が鮮やか。

風に紅葉が飛ばされる、もうそういう時期なのだ。

高千穂神社
高千穂は日向三代の宮である高千穂宮が置かれた地と伝えられるが、天孫降臨伝承と在地固有の信仰が融合し、更に熊野修験も加わるなど複雑な信仰を包含する。
また、古来より当神社の春祭りに対して槵触神社では秋祭りを行うなど、同神社とは密接な関係を持つものでもあった。

社伝によれば、源頼朝が天下泰平祈願のために畠山重忠を代参に派遣して多くの神宝を奉納、この時重忠によって現存する重要文化財の鉄製鋳造狛犬1対が献納され、境内にある「秩父杉」(高千穂町指定天然記念物)も重忠自らが植えたものといい、文永・弘安の役には敵国降伏祈願のために勅使が差遣されたという。

高千穂地方に伝承されている神楽は、天照大神が天岩戸に隠れられた折に岩戸の前で天鈿女命が調子面白く舞ったのが始まりと伝えられ、古来私共の祖先は永い間高千穂宮を中心にこの神楽を伝承して今日に及んでおる。
毎年十一月の末から翌年二月にかけて各地農村で三十三番の夜神楽を奉納し、秋の実りに対する感謝と翌年の豊穣を祈願するもの。

本日の昼食は農家を使ったレストラン、内部も裸電球で薄暗く、昔の田舎を思い出した。

通潤橋は嘉永7年(1854年)、水源に乏しい白糸台地へ水を送るために架けられた通水橋である。
建造にあたっては地元の総庄屋であった布田保之助が計画を立てて資金を調達し、熊本八代の種山村にあった著名な石工技術者集団種山石工の協力を得、近隣農民がこぞって建設作業に参加した。

橋の中央上部両側に放水口が設置されており(川の上流側に2つ、下流側に1つ)、灌漑利用が少ない農閑期には観光客用に時間を区切って20分程度の大規模な放水を行っている。
この放水の本来の目的は、石管水路の内部にたまった泥や砂を除くためのものである。
最近では全国から通潤橋の放水風景を見に来る観光客も多い。

高さ20メートル、長さ75メートルもあり、江戸時代に造られた石橋としてはアーチの直径ならびに全体の高さは国内最大である。
常時人が渡れるもののあくまで水路のための橋であるため手摺等は一切無いが、これまで転落した人は一人もいないという。

形式はアーチ橋となっており、橋の上部には3本の石管が通っている。
肥後の石工(匠)の技術レベルの高さを証明する歴史的建築構造物であり、国の重要文化財に指定されている。

なお通潤橋を含む通潤用水は日本を代表する用水のひとつとして農林水産省の疏水百選に選定され、橋と白糸台地一帯の棚田景観は、通潤用水と白糸台地の棚田景観として国の重要文化的景観に選定されている。

山都町(旧 矢部町)には江戸時代末期に当地方独特の平行三棟造(三ッ家造)のかやぶきの家屋が造られた。
台所棟、表棟、座敷棟で、これは強い谷風を防ぐためと、当時の家屋を建てるうえでの厳しい制限等があったと思われる。
この家屋は、田中賢治氏所有のものを山都町が現在地に移転し、原型に近く復元したもの。

日の出は6時半ごろの予定、淡路島の上空がうっすらと色づくが雲にさえぎられて見えず。

6時45分頃、明石海峡大橋にさしかかる、大阪まであと1時間強だ。

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