真田宝物館は、昭和41年に、真田家12代当主・真田幸治氏によって、当時の松代町に一括譲渡された同家伝来の大名道具をコレクションしています。
真田家から譲り受けた収蔵品は武具・刀剣・調度品・絵画・古文書などで、特に古文書が多く総数数万点ともいわれるが依然整理中であり実数は不明である。
1575(天正3)年の長篠の戦いで亡くなった真田信綱の青江の太刀(重要文化財)、昌幸着用の昇梯子の甲冑などの武具をはじめ、大名家の華麗な生活をしのばせる調度品や服飾、道具類、歴代藩主の書画など収蔵品は多岐にわたる。
さらに、松代藩に関係のある資料の受入もおこなっており、寄贈・寄託資料は約100件にのぼる。
展示室では、大名道具の使用方法を尊重する展示を行い、年4回・3ヶ月に1回のペースで展示替をしている。
恩田木工民親 屋敷跡
恩田木工の活躍については、池波正太郎氏が「真田騒動-恩田木工-」という短編小説で描いています。
現在、屋敷跡は石碑と説明看板が建っているのみです。
かつては松代城の大御門に向かう道に面していました。
恩田杢の碑
恩田杢は真田家の財政を立て直すために若くして抜擢された松代藩の家老です。
家族にも質素倹約を約束させて自らも身を正し、財政改革に取り組みました。
真田公園や松代公民館は元松代高校があった場所であり、恩田杢の碑は松代高校の正門のところにあったようです。
恩田木工民親(1717-1762)
恩田木工民親は、松代藩財政の建直し充実 をはかり優れた民政を行った人として、また 江戸時代の経世家として名高い。
享保2年松代に生れ、30歳で家老職となり 宝暦7年(1757)真田家第6代藩主幸弘公に 抜擢され、41歳で家老職勝手掛となって窮乏 する藩財政建直しを命じられた。
民親は正義を政治の基本として自ら虚言し ないことを契り、財政窮乏を救う道は倹約が 第一であるとして自ら実行し、納税法の改正 荒地の開墾、養蚕等殖産興業をすすめ、一方 詩歌・音曲を奨励して生活に楽しみを与え、 民生の安定をはかり藩財政の建直しを成功さ せた。
しかし、宝暦12年(1762)在職僅かに5年 46歳で病没した。
墓は松代町田町の長国寺に ある。
民親の事績は『日暮硯』によって、すでに江戸時代に全国的に知られ、その写本が 流布した。
真田公園に隣接して建っている松代公民館の入り口のそばに建っているのは恩田杢の言葉です。
「朝夕に向かいてぞ見る紐鏡
己が心に僻み(ひがみ)あるかと」
真田宝物館のある眞田公園一帯は石碑、童謡歌碑が多くあることで知られる。
昭和40年(1965)から5年間にわたって発生した「松代群発地震」を記録するモニュメント。
長野オリンピック「聖火ランナー像」
屈む女
作者:安田 周三郎
屈むことにより、筋肉の張り、線の滑らかな美しさ、豊かな髪の毛を肩から前に垂らしたモダンなポーズです。
健康美のあふれた清楚な作品です
童謡蛙の笛の歌碑
作曲は松代出身の海沼実。
松代は童謡作詞作曲家が多く輩出した町です。
童謡歌碑、草川信作曲の「春の歌」
草川信の父母は松代西条出身。
長男が産まれたのを契機に長野市県町に引っ越して後、信が生まれた。
子どもの教育のためには長野市内が良いと考えての移転とも言われている。
信の祖父母は松代西条に住んでいたたので、松代西条に遊びに行っている。
数多くの名曲は松代の豊かな自然と暖かな人間関係にはぐくまれた感性が
大いに貢献していると思われる。
松代町真田公園に作曲家「海沼実」さんの生誕100周年を記念する歌碑。
海沼さんは松代町出身で童謡「カラスの赤ちゃん」「お猿のかごや」「みかんの花咲く丘」などを作曲しました。
旧樋口家住宅
藩の目付役などを務めた樋口家の屋敷は真田邸(新御殿跡)と道を挟んで隣接し、上級の武家屋敷町の中心的な位置にあった。
募末の敷地割そのままと考えられ、当時の屋敷構を伝えている。
珍しい茅葺の母屋。
母屋、土蔵、長屋の三棟が平成20年(2008)に、長野市の有形文化財に指定された。
南側は江戸時代には畑であったが、現在は竹林及び庭園として整備されている。
真田宝物館へのアクセス、行き方歩き方
所在地:〒381-1231 長野県長野市松代町松代4-1
お問い合せ:026−278−2801
バス:長野駅から松代行き30分、松代駅下車徒歩3分