モネの庭マルモッタン 水の庭

念願のモネの庭に来ました。
青春18切符で列車を乗り継いで。

モネは生涯の祈り返しの年にあたる1883年、ジヴェルニーヘ移り住んだ。
当初、モネと息子たち、そしてオシュデ夫人とその子どもたちは借家に住んでいたが、90年には屋敷と土地とを購入している。

家族から離れていたエルネストーオシュデが91年に亡くなると、翌年、モネはアリスと正式に結婚した。

93年には自宅に隣接した土地を入手し、池の造成着手する。
やがて睡蓮の池とその周囲の小径、そして草木の茂みが整備されて「水の庭」と呼ばれるこの場所は、膨大な「睡蓮」の作品群の舞台となっていく。

「水の庭」を描いた「睡蓮」の作品群はおよそ300点にも及び、画家の生涯の全制作数の七分の一を占める。

「睡蓮」の割合は年を追う毎に増し、1895年以降の制作数ではほぽ半数、第一次世界大戦後の作品のほとんど全数が「睡蓮」である。

1890年、モネはジヅエルニーの家と土地を2万2000フランで購入した。

そして、果樹園の樹木を伐採して、四季折々の花咲くっ花の庭」を、その3年後には、土地を買い足して「水の庭」を造り始める。

もともとオモダカや睡蓮の自生していた池を、モネは日本風の庭園へと生まれ変わらせた。
太鼓橋を架けて藤棚をのせ、橋のたもとには菖蒲やかきっばたを植え、池のほとりには柳や竹林を配する。

太鼓橋から見た睡蓮の池。

この連作では池と太鼓橋が描かれ、睡蓮の茂みが水面を覆い尽くしているが、ところどころの睡蓮の葉の隙間に樹木が反映している。

そしてこ水の庭」は、改良を重ねつつ、30年以上もの問、モネのインスピレーションの源であり続けたのである。

太鼓橋からの景色、藤棚のフジを少し入れてみる。

積み藁、ポプラ並木、ルーアン大聖堂……しヽくつもの連作に取り組んだモネが最後にたどり着いたのは[水]、そしてその反映の風景だった。

ジヴェルニーの「水の庭」をモチーフに、倦むことなく「睡蓮」を描き続けたモネ。
その情熱は、死の直前まで続いた。

モネが視力の悪化に気づいたのは、1908年頃とされている。
そして1912年には白内障と診断されたが、モネは手術を先延ばしにしていた。

当時の白内障手術は、多くの苦痛と困難を伴うものだったからである。

しかし、着実に進行していく白内障から失明の危機にまで陥ったモネは、1923年、ついに周囲の説得に応じて、手術を決意。

かろうじて視力を回復したのだった。

そして、「声が出なくなった歌手は引退します。

白内障の手術を受けた画家は描くのを諦めるべきなのでしょう、私にはとてもできないことですが」と主治医への手紙に綴りながらも、その3年後に控えた死の直前まで「睡蓮」に取り組み続けたのであった。

モネの愛した庭として有名なフランス、ジヴェルニーにある《モネの庭)。

彼は43歳から生涯の半分をこの庭とアトU工のある邸宅で過ごし、創作以外の時間を庭仕事に充てていたといいます。

そうしたクロード・モネの思いを高知の自然の中で再現したのが北川村「モネの庭」マルモッタン。
当園は世界で唯一、本家より「モネの庭」の名称を許可された施設です。

睡蓮は彼が晩年最も情熱を注いだモチーフのーつで、様々な色や品種のものを栽培してきました。

その中でどうしても咲かせたかった夢の「青い睡蓮」。
熱帯性である為に、気温の低い北フランス/ノルマンディー地方のジヴェルニーではついに花開くことはありませんでした。

私たちはモネが苗を仕入れていた所と同じ南フランスにある水性植物園から、十種類あまりの苗を持ち帰り大切に育てた結果、ここ南国土佐の眩しいひかりを受け、見事に花を咲かせることが出来ました。

モネが夢みた青い睡蓮

当園で咲いている睡蓮のほとんどは、連作「睡蓮」の舞台となったフランス/ジヴェルニーの「モネの庭」から株分けされたものです。

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