260年むかしの豪商の暮らしがよみがえる 加賀屋新田会所跡

加賀屋新田を開発した加賀屋甚兵衛は大阪淡路町の両替商であり、享保13年(1728)よりこの地域一帯の新田開発をはじめた。

大阪市内にただ一つ残る神殿会所跡。

冠木門。

特異的な形状の瓦屋根は茶道の本山、京都・大徳寺から拝領したデザイン。
額は京都・相国寺の管長によるもの。

式台玄関へのアプローチは直線石畳で表脇に植え込みがある。

書院座敷襖絵は雪舟四代・雲谷等益作の山水画。

庭園銘扁額「愉園」は中国清朝末期に漢学者、羅振玉がわざわざこの庭園のために揮毫したもの。

書院から居宅を接続する渡り廊下。
軒裏の細工が素晴らしい。雨ざらしの渡り廊下は水に強い松材。

加賀屋新田を開発した加賀屋甚兵衛は大阪淡路町の両替商であり、享保13年(1728)よりこの地域一帯の新田開発をはじめた。

延享2年(1745)から、加賀屋新田の開発に着手し、宝暦4年(1754)には加賀屋新田会所が完成し、ここに居を移した。

翌年には開発事業も一段落し、代官より6町7反歩余の検地を受け、また「加賀屋新田」という村名を得た。

その後も代々周辺地区の新田開発をすすめ、天保末年には105町3反歩余が開墾された。

新田の経営、管理は開発主や開発主から任命された新田支配人が直接これにあたったが、新田会所はそのための中心的役割を担う施設であった。

加賀屋新田会所は宝暦4年に完成したものであるが、当初の様子を示す史料は少ない。

ただ文政10年(1827)の『家屋質入証文』により、この時期の会所の建築棟数や規模等を知ることができる。

これによると、書院や鳳鳴亭を中心とした座敷部分は当時の姿をよく今に伝えることがわかる。

両者を繋ぐ居宅部分も中心部は古い形態を残している。

北側の土蔵は明治期に現在地に移築されたものと思われるが、全体として新田会所建物群の構成をよく伝えている。

書院軒裏の絞り丸太と千鳥柄透かし彫り欄間。

木に蔓が巻きついてできる絞り丸太は極めて高価である。(現在床柱などで見られるものはほとんど針金を巻きつけてしわを造る人造品)

透かし彫りの大阪欄間は、近世日本の材木集積地で、町家普請が集中した大阪ならではの伝統工芸品だ。

ファサード側から見た吉野窓。
雨戸袋が網代となっている。

回遊式庭園 「愉園」

作庭家は不明だが「大茶人・小堀遠州風の築山林泉回遊式庭園(つきやまりんせんかいゆうしきていえん)」と言われている。

この様式の庭は、池、築山(土砂や石を積み上げて人工的に作る山)、曲水(きょくすい:曲がりくねって流れる小川)、樹林などを主体に構成し、移りゆく景色を眺めながら一周するとひとつの絵巻物を見終わるという趣向で造られている。

里山の野池と農家って風情。

昔は、この池から舟の乗り井路(いじ:水路の事)を通って十三間川へ出て市中の芝居小屋まで遊びに出掛けたそうです。

西側庭園の築山上には、「明霞亭」と呼ばれたあずまや(新しく建て直されたもの)があり、かつて頂上から加賀屋新田の領域内が見渡せたという。

待屋 偶然亭

居宅の北側にある土蔵は、明治期に移築されたものと思われるが、建物群として新田会所建物の構成をよく伝えている。

土蔵内には当時の農機具等が展示されている。

庭にはザクロの実が実る。

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