大雲院特別公開

京都府
カレンダー
2024年4月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

天正15年(1587年)、正親町天皇の勅命を受けるという形で、貞安(じょうあん)を開山として、織田信長の子信忠の菩提を弔うために、信忠が討たれた二条御所跡(烏丸御池)に創建したのが初めで、大雲院という寺院名は、信忠の法名からつけられた。

正面左側の廻縁に大理石製の釈迦涅槃像が。

まず、正面の入口は総門。
東京から移築されたもので、旧宮家の門と伝えられている。

織田信長と子信忠の墓。

境内墓地には石川五右衛門の墓があり、これは処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁による。

祇園閣 – 1928年(昭和3年)に建築された3階建ての建物で、大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が別邸とし建てた別邸「真葛荘」の一部。

屋根は銅板葺きであるが、これは大倉が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったため。

祇園祭の鉾を模したもので、設計は伊東忠太。
1997年(平成9年)12月12日、国の登録有形文化財に登録された。

先端によく見ると鶴がついています。
通常は鳳凰を飾るが、建てた人物の幼名「鶴吉」に因んだもの。


高台寺境内からの大雲院 祇園閣。

日本画の巨匠竹内栖鳳が昭和のはじめに構えた私邸跡のレストランTHE SODOH HIGASHIYAMAからの大雲院 祇園閣

生け花が飾られライトアップされた大雲院 祇園閣。

開山の貞安(ていあん)上人は有名な安土論争で信長の知遇を得、出世の糸口をつかみます。

貞安上人は、『信長公記』に「浄土宗は、墨衣にて、如何にも左道なる仕立、関東の長老、安土田中の貞安長老二人、是も硯・料紙を持ち候て、出らる。」「貞安問ひて云ふ、法花八軸ノ中ニ念仏有ルカ」と記されている僧です。

天正7年5月、安土城下の浄厳院で行われた法華・浄土宗論の当事者の一人となった人。

宗論で勝った貞安は織田信長の知遇を得ます。

「信長公厚く帰依し給ひ、江州八幡に西光寺を建立して、貞安ここに住職す」。

その織田信長・信忠父子が天正10年(1582)の本能寺の変で亡くなります。
そのことを伝え聞いた貞安は京都に上り、正親町天皇の命により信長・信忠の菩提を弔うために、二条烏丸あたりに一宇を建立します。

信忠の法名が大雲院殿三品林仙厳大居士ということから、「大雲院」と号したのが、当寺の起源。
そして、天正18年(1590)秀吉の命により寺町四条下ルの地に移転。

「信長が法華宗を不当に弾圧した」という歴史学上の見解には非常に疑問が残る。

安土宗論(あづちしゅうろん)は、1579年(天正7年)、安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗の宗論。

安土問答とも称される。

織田信長の命により、浄土宗の僧(玉念・貞安・洞庫)等と、法華僧(日珖・日諦・日淵)等の間で行われた。

法華宗は信長の意図的な弾圧により、敗れたとされ、処罰者を出し、以後他宗への法論を行わないことを誓わされた。

浄土宗側は、黒染めの衣で、質素ないでたち、霊誉と、安土田中の西光寺の聖誉・貞安(せいよていあん)、正福寺信誉洞庫、知恩院一心院助念の4人が筆記用具を持って登場。

法論の出席者は以下の通り。
浄土宗側 – 霊誉玉念(浄蓮寺)、聖誉定(貞)安(西光寺)、信誉洞庫(正福寺)、助念(知恩院、記録者)
法華宗側 – 日諦(常光院)、日珖(頂妙寺)、日淵(久遠院)、普伝(妙国寺)、久遠院大蔵坊(記録者)
判定者 – 鉄叟景秀(南禅寺、建仁寺)、華渓正稷(南禅寺帰雲院)、仙覚坊(法隆寺)、(因果居士)
名代 – 津田信澄
奉行 – 菅屋長頼、堀秀政、長谷川秀一
目付役 – 矢部家定、森蘭丸

史料の信憑性

日蓮宗側の論拠は主に「安土問答実録(著者・日淵)」「因果居士記録(因果居士から聞き取ったとされる)」だが、この2つの史料には問題がある。

前者には因果居士が登場せず、後者には日淵が登場しないのである。両者を統合しようとする考えとして、「日淵が因果居士のことを書き忘れた。

そして日淵は日雄(因果居士記録に登場)と同一人物である」とする説がある。

しかし「因果居士記録」において、因果居士は宗論に非常に大きく干渉して、浄土宗側を勝利に導いた立役者となっており、その名前を書き忘れるのは甚だ不自然であることや、日淵=日雄を立証する史料が見つかっていないことなどから、少なくともどちらかは虚偽だと思われる。

ちなみに信長は、宗論後も本能寺を始めとした法華宗の寺を宿泊施設として使っており、信長側が不正をしていない傍証になる。

ルイス・フロイスの『日本史』でも、信長公記と全く同じ流れで宗論が進んでおり、やはり「妙」のところで法華宗側が回答に詰まって決着がついている。

宗論の項冒頭にフロイスが書いている通り、彼にとっては法華宗も浄土宗もどちらも「悪魔の教え」として完全否定すべきものであり、また「彼らはなんら哲学的知識を持っていなかったので」などと両者とも蔑視している。

つまりフロイスが浄土宗の勝利のために信長と口裏を合わせる理由は全くないと言え、信憑性は高い。

結論として、「信長が法華宗を不当に弾圧した」という歴史学上の見解には非常に疑問が残る。

信長がこのようなことを主催した動機については、予ねてから法華宗をどう諌めようか想定していたから、という説が有力である。

一応、経済的に豊かであった法華宗寺院及び信者から矢銭を調達するための策略であった、という説もあるが、当時すでに織田家は非常に裕福だったと思われることや、天文法華の乱の被害規模を考えれば、利益とリスクが全く釣り合わない話である。

井沢元彦も「もし信長が法華宗を嵌めたのなら、なぜ素直に詫び証文を書いたのか、また当時の宗教は世俗の権力に徹底的に反抗するのが常であり、特にその傾向が強い法華宗がなぜ大規模な法華一揆を起こさなかったのか」と指摘している。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!