悲劇の皇子を悼み 二上山麓散策


ため池越しに二上山をのぞむ。
手前の芝生が鳥谷口古墳。

そもそも、皇子の墓所についての記述は、事件を記した日本書紀には一切ない(謀反人の墓所なぞ、記そうはずもない)。

それは万葉集の中にあった。姉の大伯皇女が作ったとされる歌とその詞書きにだ。

大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀しび傷(いた)む御作歌二首。

 うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と わが見む  (巻二 165)
 
たったこれだけの「証拠」で、皇子の墓所は二上山上にあり、ということになったのだ。

考古学者たちによると、山上の「墓所」は墓ですらないとすでに結論づけられている。

つまり、そこには何もないのだ。確かに大津皇子の時代に、山の頂きに墓を築くような風習はなかった。

では、いつ誰がそこを大津皇子の墓としたのか。それは、はるか後の江戸時代中期のことだった。

鳥谷口古墳(奈良県當麻町大字染野字鳥谷口)1辺が約7.6m,高さ約2.1mの方墳。

墳丘は土を突き固め,その層を重ねてつくった版築とよばれる工法で造られている。
墳丘の裾には人頭大の石が敷き詰められていたらしい。

小さな丘の上に石棺があるだけの、奈良県内のどこにでもありそうな古墳です。
しかし、「大津皇子が本当に葬られたのはここ鳥谷口古墳である」という説もありますので、万葉ファン必見でしょう。

しかしその石室は狭く、大人の棺が入りきらない、納骨のためだけの奇妙な墓なのだ。

しかも、石室を形作る各石は、家型石棺の蓋の未完成品を転用した寄せ集めという異様なものである。

だが、規模は小さくても格がある凝灰岩を使っている。

また、二上山「上」や「麓」に他に古墳はない、孤立した寂しい古墳なのである。
大津皇子伝説にいかにもふさわしい墓跡だと言ってよい。

二上山雄岳へ向かう登山道。

天台宗「祐泉寺(ゆうせんじ)」

ちょっと見たら普通の民家のようだが本尊は高さ118cmの釋迦牟尼如来立像で、脇侍が通常阿弥陀如来に仕える観世音菩薩と勢至菩薩。

祐泉寺を過ぎたあたりから完全に登山道となり、勾配もきつくなる。

二上山は雄岳と雌岳よりなるトロイデ型火山。

約2000年前には噴火活動をしており石器の材料となるサヌカイト原石を噴出した。
大阪府はもとより近畿各地で発掘される石器のほとんどが二上山産のサヌカイトで作られたものと推定されている。

展望台への456段の石段。

ニ上山ふるさと公園の456段の石段を下から見た所。高低差70mを一気に駆け上がります。

今回使用の散策マップ。

661斉明7年1月6日、斉明天皇ら大和朝廷軍が船で西に向かって航路につきます。

その2日後、大伯の海の船上で天武天皇の妻、大田皇女が女の子を出産しています。
さらに翌年、今度は大田皇女の妹鸕野皇女が草壁皇子を九州で出産します。

その翌年また大田皇女が九州、娜の大津で男の子を出産しているのです。
これに前後してこの年8月、唐、新羅連合軍に朝鮮白村江で日本軍が敗戦したのです。

じつは大海人皇子の名はこと白村江に関して少しも現れてこない。

しかし、史実としては大海人皇子の2名の妻がこの九州の地で毎年一人ずつ子供を交互に出産している。
つまりこの期間は天武天皇がずっと九州にいたと考えられる。

母の大田皇女は、天智天皇の皇女で鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の姉にあたり、順当にいけば皇后になりえたが、大津が4歳頃の時に死去し、姉の大来皇女も斎女とされたため、大津には後ろ盾が乏しかった。

そのため、異母兄の草壁皇子が681年(天武天皇10年)に皇太子となった。

683年(天武天皇12年)2月に朝廷の政治に参加。

この「始聴朝政」という大津の政治参加を示す文句については様々なとらえ方があるが、『続日本紀』に皇太子である首親王(聖武天皇)の政治参加におなじ用語を使っていることからみると、草壁と匹敵する立場に立ったと理解するのが妥当だと思われる。

しかし、当時まだ年少だった長皇子・舎人親王などを除けば、血統的に草壁と互角だった大津の政治参加は、一応は明確になっていた草壁への皇位継承が半ば白紙化した事を意味した。

686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、同年10月2日に親友の川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。享年24。

『日本書紀』には妃の山辺皇女が殉死したとしている。
また、『万葉集』の題詞には死の直前に、姉である大来皇女が斎王を務めている伊勢神宮へ向かったとある。

事件の背景には、鵜野讃良皇后の意向があったとする見方が有力(直木孝次郎)。

万葉集巻第2 105〜106番(姉の大来皇女に会うために伊勢神宮に下向した時に大来皇女が作った歌)

わが背子を大和に遣るとさ夜深けて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし
二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ

万葉集巻第2 107〜109番(石川郎女との相聞歌)

あしひきの山のしづくに妹待つと 我立ち濡れぬ山のしづくに
吾を待つと君が濡れけむあしひきの 山のしづくにならましものを
大船の津守の占に告らむとは まさしく知りて我が二人寝し

万葉集巻第2 163〜164番(処刑後、大来皇女が退下・帰京途上で作った歌)

神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに
見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに

万葉集巻第2 165〜166番(二上山に移葬されたとき、大来皇女が作った歌)

うつそみの人なる我(われ)や明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)と我(あ)が見む
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに

辞世

和歌

ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

漢詩

金烏臨西舎 (金烏 西舎に臨み)
鼓声催短命
 (鼓声 短命を催す)
泉路無賓主 (泉路 賓主無し)
此夕離家向 (この夕 誰が家にか向ふ)

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