小雨の古都 金沢の街を早朝散策

北陸

旅行の度に早朝散策を心掛けているが、今回はあいにくの雨であった。
雨の古都金沢もいいだろう。

しかし、日が短くなり、6時前にならないと明るくならない。
おまけに本日は7時出発なので1時間しか時間がない、急ごう。
本日も 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

片町交差点を香林坊へ向けて歩き出す。
まだ街はほとんど眠りの中だ。

金沢市の中心街に、旧石川県庁舎を改修した石川県政記念「しいのき迎賓館」が平成22年4月にオープンした。
歴史ある旧石川県庁舎の外観や重厚な正面玄関、大理石の階段などを残しつつ、ガラス張りの近代的な空間を融合した風貌で、レストランのほか様々な展示場や、イベントの場を提供することで、金沢の新たな拠点として市民に親しまれている。

この建物の正面には名称の由来となる高さ12メートル、根元周囲7.4メートルの2本のシイノキがあり、1592年加賀藩3代藩主前田利常公が書院を造ったときの庭木と言われ、昭和18年に国指定天然記念物に指定されている。

雄魂碑
春休みを利用して滋賀県大津市に合宿していた金沢第四高等学校(現・金沢大学)の漕艇部員8名は、京都大学の学生ら3名を加えた合計11名で、高島郡今津町(現・高島市)の琵琶湖畔からボートに乗って午前7時頃出発した。

しかし、午後6時になっても戻らなかったため、翌4月7日朝より大がかりな捜索が行われた。
午前10時頃に定置網にかかったオールが、更に午後2時頃には漕艇部員の持ち物と思われる下駄が発見されるなど、11名の生存は絶望視された。
その後も捜索は行われたが、11名全員の遺体が発見されるまで更に2ヶ月を要した。
事故の原因は、春に起こる琵琶湖地方特有の突風比良八荒であると言われている。

昭和33年に建てられた、明治・大正・昭和3代の四高生を表した記念像。
右側面に代表寮歌「南下軍の歌」(明治40年制作)の一節が刻まれ、背面の由来文に「集まり散じた同窓同学の士一万二千余 相率いて『至誠自治』の精神を培い『超然時習』の学風を起し 業成りて後は明治大正昭和三代に亘りよく祖国の興隆と文化の進運に寄與した」とある。

創立85周年を記念して昭和46年に建てられた、代表寮歌「北の都」(大正4年制作)の記念歌碑。
背面の由来文に「われらが青春ここにとどまり 宝石のごとく輝く」とある。
第四高等学校南寮寮歌 ( 大正四年 )
    駒井重次    作歌
    金原祐之助   作曲
1. 北の都に秋たけて   われ等二十の夢数ふ
   男女の棲む國に    二八にかへるすべもなし・・・・

大正13年に建てられた溝淵進馬第7代校長像。
建立時の胸像は昭和19年に戦時供出され、昭和34年に再制作された。

側面の再鋳由来文に「往時先生の薫陶を享けし者 茲に相集まり再び先生の尊容を仰ぎ 徳風を追慕せんとす」とある。

金沢市役所もまだ深い眠りの中です。

広坂通りを東へ進んでいます。
現在、6時10分。
広坂の地名の由来としては、兼六園の南側にある坂道の名前からとされている。
加賀藩の時代には現在の広坂周辺には武家屋敷が多く存在していた。

当時、この坂道がかなり幅の広いもので次第に「広坂」と呼ばれるようになったとされる。
現在は出羽町交差点(石川県立美術館前)から広坂交差点(石浦神社前)が坂の名前としての広坂である

堂形とは金沢城の西側,旧県庁のある場所を指し,17世紀前半すでに米蔵があり,堂形と称されていた。
2万5000石の米が納められ,堂形蔵奉行が管掌していた。

1672(寛文12)年頃新たに紺屋坂下にも米蔵が建築されたため,旧を古堂形、新築を新堂形と呼んだ。
共に城米を納めてあった。

本丸南面の高石垣が見えてきた。

かつての「いもり堀」は、金沢城の南西側を囲む外堀で、明治40年(1907)、旧陸軍により上部の削平と埋め立てが行われ、その跡地は、陸軍用地を経て、戦後はテニスコートとして利用されました。

江戸時代の堀は、幅が広いところで約40m、深さが10m以上あり、水を湛えていました。
斜面は土羽で、比較的緩やかな勾配で造られており、南東端には鯉喉櫓台の石垣がありました。

鯉喉(りこう)櫓台の復元には、約900個の石材を使用しています。
このうち埋蔵文化財調査時に発掘された約250個を優先的に使用し、残りは県内産の戸室石を使用しています。

金沢21世紀美術館の方向から金沢城本丸を見ると、辰巳櫓跡付近の石垣が見える。
この石垣の最上部、下の道路からの高さは30m以上になり、見上げるような感じになる。
この石垣、城の石垣としてはちょっと不自然である。
石垣が3段に積まれている。(注: 別の石垣があるのでこれを含めると4段) 

この上に櫓があったとすると、通常は高い石垣にする部分である。
実際、藩政時代にはここは一段の高い石垣であった。(注、堀の石垣は別になるので、これを含めると2段) 
その石垣が明治期に崩れ、その修復の際に3段に積まれたそうだ。

この石垣が崩れた理由であるが、金沢城は明治期には陸軍が使っていて、建物を建設しようとして石垣の下をいじったことらしい。
金沢城の石垣は一つの石を外すと全部が崩れ落ちる、との言い伝えもあったそうだ。

さすがにそんなこともないだろうけど、下部が非常に大切ではあるようだ。
石垣が崩れた際、石垣をなくす案もあったそうだ。だけど3段ではあるが復元された。

金沢城の石垣めぐり案内図。
金沢城では、前田利家の入城後、本格的な石垣づくりが始まりました。
出入口や庭園といった場所に応じて、特殊な技術やデザインが工夫されたこと、また何度も修築が繰り返されたことなどから、現在、さまざまな種類の石垣を見ることができます。

さらに、石垣づくりの秘伝書、石を切り出した丁場、石引き道の存在など、石垣に関する歴史資料や環境がそなわっていることをあわせ、金沢城は「石垣の博物館」と呼ばれています。

現在の辰巳櫓下 明治40年に改変を受けたが、小角上部はかろうじて文化の修築跡を残す。

金沢城の石垣めぐり案内図は随所にあり、それぞれに現在地の表示があり親切だ。

辰巳櫓跡下から丑寅櫓跡下までの百間堀沿いの石垣

百間堀は、一向一揆の尾山御坊を攻め落とした佐久間盛政が、その跡に今の金沢城を築城する際に掘らせたものだという。
工事に駆り集められた農民たちにしても一向宗の門徒だから、いやいや働かされたのだろう。

丑寅櫓跡下の百間堀沿いの石垣

石川門が見えてきた、いかん時間がない、これからいいとこやけど引き返そう。

辰巳用水(たつみようすい)は、石川県金沢市を流れる約11kmの用水路。
三代加賀藩主前田利常の命により、1632年(寛永9年)に板屋兵四郎が完成させたといわれている。
疏水百選の一つ。
一部が国の史跡に指定されている。

広坂交差点(旧県庁前)
石浦神社が見えています。

越前国加賀郡に住む三輪の氏子が奈良時代に居住地に社祠を建て、大和国大神神社の神霊である大物主大神を勧請し「三輪神社」と号したのが起源であるとか、聖武天皇の天平11年(739年)5月に勅を以て創建したとか、花山天皇の勅を以て創建した、或いは養老年中(717-723年)に松浦氏の女性が大和国の長谷観音を勧請して創建した加賀石浦の長谷観音堂が前身であるなどと伝承されている。

左手は兼六園の入り口真弓坂。
金沢の都市伝説に、「夕日の暮れ行く真弓坂を、恋人と二人で手をつないで降りると将来結ばれる」というのがあるそうだ。

広坂通りを香林坊へ向けて歩いています。
ウインドウに雨に濡れた緑が映りこんでいます。

ビルの奥に松が・・・古都らしい雰囲気でいいです。

町名の由来は、比叡山の僧であった香林坊が還俗して、この地の町人向田家の跡取り向田香林坊(むこうだこうりんぼう)となり、以来目薬の製造販売に成功して「香林坊家」として繁栄したという説が有力である。

短い時間だったが、古都金沢の雨中散策に満足。
今度はゆっくりと金沢城の石垣めぐりでもしたいな。

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金沢城へのアクセス、行き方歩き方

◆路線バス/
 金沢駅 → 兼六園下下車 → 金沢城公園(石川門口)・兼六園(桂坂口)
 金沢駅 → 広坂下車 → 金沢城公園(いもり坂口)・兼六園(真弓坂口)
 金沢駅 → 出羽町下車 → 兼六園(小立野口)
◆その他/
 兼六園シャトルバス(土曜・日曜・祝日運行)
 レトロバス「城下まち金沢周遊」号 など
 詳しくは、北陸鉄道テレホンサービスセンター TEL 076-237-5115(8:00~19:00)
◆タクシー/
 金沢駅より 約10分
◆自動車/
 北陸自動車道 金沢西ICから 約30分
 北陸自動車道 金沢東ICから 約30分
 北陸自動車道 金沢森本ICから 約20分