万葉の旅 大和三山を訪ねる 畝傍山

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かつては「畝火山」、「雲根火山」、「宇禰縻夜摩」とも記され、「慈明寺山」、「御峯山」などと呼ばれることもあった。
万葉集の中では「瑞山」(みずやま)とも詠まれた。

江戸時代より以前は、山上に70以上もの寺院があったと指摘されている。

現代でも西麓には曹洞宗慈明寺が残る。
本寺の傍に畝火山口神社がある。

明治に入ってから、国は神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされる畝傍山の麓に橿原神宮を興し、それまで多武峰で奉斎してきた神武天皇の「御霊」を移したとされる。

山頂への登山口は、東麓の橿原神宮側と、西麓の畝火山口神社側がある。
今回は橿原神宮側から登った。

畝傍山の登山口。その入口部分には「東大谷日女命神社」(ひがしおおたにひめみことじんじゃ)が鎮座する。

御祭神は「姫蹈鞴五十鈴姫」(ひめたららいすずひめのみこと)。

江戸時代には東大谷日女命神社は熊野権現と称して、伊ザ冊命いざなみのみことを祭神としていたという。
明治の中頃は祭神を神功皇后としていたが、幾ばくもなく媛蹈鞴五十鈴媛命に変更した。

そして、畝傍の東の大谷にあることから東大谷日女命神社として申請した。
その結果、無格社として許可され今日に及んでいるでいるという。

ヒメは卑弥呼との説もある。

眺望のいい山で随所から町並みを望める。

山頂の広場の脇に崩れかけた竹垣に囲われた畝傍山口神社社殿跡がある。

昭和15年までは、畝傍山口神社はこの地に鎮座していた。
古老の話によると、祭日の夜は山麓から山頂まで提灯の火が続き、山頂付近に夜店が並んだという。

この社殿跡の隣りに、樹木を石垣で囲んだ土壇がある。

ここで、住吉大社で毎年2月に行われる祈年祭と11月に行われる新嘗祭の前に、畝傍山の埴土はにつち を採ってくる「埴使はにつかいの神事」が行われる。

住吉大社のとても大切な神事で、住吉大社の埴使の神職が先ず曽我川東岸にある雲名梯うなで神社で齋戒の後祝詞を奏し、次いで畝火山口神社で祭典を行なった後、畝傍山に登る。

そして、山頂のこの地で口に榊の葉を含んで埴土を三握半採取し、埴筥はにばこに収めて持ち帰る。

採取される埴土には、一握りに5~6粒のネズミノフンのようなものが普通の土に混じっているそうだ。

持ち帰った埴土は、土に混ぜてお供えを入れる神器を作るのに使われる。

ところで、ネズミノフンのようなものは、コフキコガネの糞であるという説がある。
コフキコガネはコガネムシの仲間だが、全身に微毛が生えているため、その名のように粉を吹いているように見える昆虫である。

標高は198.8メートルと三山の中では最も高い。ただし、山頂にある三等三角点の標高は198.49メートル。

現在、山頂からは天香久山や耳成山のほか、遠く若草山なども眺望することができる、画像は耳成山。

二上山を望む。

畝傍山は大和の中でも有数の「日読み」の山であるという。

夏至の日に畝傍山の山頂から太陽の昇り沈みを望むと、朝日は三輪山の方角から昇ってきて、夕日は二上山の右手方向へと沈んで行く。

冬至の日には、宇陀と吉野の境にある竜門岳の方角から朝日が昇り、夕日は河内と大和の境である葛城山の方向へ沈んでいくという。

畝傍山を詠んだ万葉歌。

「思ひあまり 甚(いた)もすべ無み 玉だすき 畝火の山に われは標(しめ)結ふ」
(巻7-1335)  作者不詳

恋しくて、思い余ってどうしようもないので、畝傍山(うねびやま)に、(私のものだという)しるしを結び付けるのです。

香久山は 畝傍を愛しと 耳成と 相争ひき神代より
かくにあるらし 古昔(いにしえ)も 然(しか)にあれこそ
うつせみも 嬬(つま)を争ふらしき
   中大兄皇子

この歌の意味は、古来様々に解釈されている。
複数の解釈が可能なのは、万葉仮名で書かれた原文の読み方にある。

原文では”畝火ををしと”を「雲根火雄男志等」と書いてある。
これを「畝火雄雄(をを)しと」読むか「畝火を愛(を)しと」と読むかで、理解の仕方がちがってくる。

前者であれば、畝傍山は男山となり、後者であれば女山と解さなければならない。

畝傍山を男に例える解釈の理由の一つは、山の高さにある。
橿原市の市域に含まれる大和三山(耳成山、天香具山、畝傍山)のうち、一番高いのは畝傍山である。

しかし、額田王女をめぐる実弟の大海人皇子との争いを、中大兄皇子が比喩したとするならば、畝傍山は額田王女が仮託された女山ということになる。

玉だすき 畝傍の山の 橿原の
ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと
栂の木の いや継ぎ継ぎに 天の下
知らしめししを そらにみつ 大和を置きて
あおによし 奈良山を越え いかさまに
思ほしめせか 天離(あまざか)る
鄙(ひな)にはあれど 石走(いはばし)る
近江の国の 楽浪(さきなみ)の 大津の宮に
天の下 知らしめしけむ…

柿本人麻呂 万葉集 巻第1-29

畝傍(うねび)の山の橿原(かしはら)におられました神の代からお生まれになって代々に渡って天下を治められていたのに。

大和の国を離れて、奈良山を越え、どのように思われたのか、都から離れているところですが、近江(あふみ)の国の<大津の宮で天下を治められたそうだ。 あの天皇の宮はここだと聞いても、宮殿はここだと言うけれど、春草が茂って、霞(かすみ)が立って春の日がかすんでいる、この都を見ると悲しいのです。 天智天皇(てんじてんのう)が都とした大津の宮の荒れた様子を見て詠んだ歌。 また、初代天皇である神武天皇の宮「畝傍橿原宮」が畝傍山の麓にあったとされており、古くから神聖な場所として扱われてきたため、周囲には天皇陵が見られる。 関連記事[catlist categorypage="yes"]
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畝傍山へのアクセス、行き方歩き方
奈良県橿原市山本町

*近鉄畝傍御陵前駅(徒歩約11分)
*近鉄橿原神宮前駅(徒歩約17分)

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