遠の朝廷と防人を訪ねて①

九州

古代史と万葉集の史跡を訪ねる旅、今回は九州遠征。
大宰府万葉歌碑めぐりにそって数回に分けてお届けします。

冬型の強い季節風の吹き荒れる日南港を船出、おまけに数日前から風邪をひいており絶不調。

664年、唐と新羅の攻撃に備えて全長1.2kmにわたり、築かれた大宰府の防衛施設。
博多側から南下してくると、太宰府市に入ってすぐに道路や線路を横切る木立におおわれた丘がある。

これが664年、唐と新羅の攻撃に備えて築かれた大宰府の防衛施設「水城」。

その規模は全長1.2kmにわたり、基底部で幅80m、高さ13mを越える人工の土塁(堤防)を築き、その博多湾側に幅60m、深さ4mの堀をつくり、水を貯えたという。近隣の春日市や大野城市にも、これに連鎖する小規模な水城が残存している。

663年、白村江の戦いで唐や新羅の連合軍に負けたことをきっかけに、敵の侵攻に備えるため、水城や大野城、基肄城を築いた。

敵に攻められやすい博多湾の沿岸にあった那津官家も、現在の太宰府市の地に移され、「大宰府」が誕生したと考えられている。
このように「水城」は大宰府を守るのに最も重要な所であった。

当時は通用門が東門と西門の2ヶ所しかない大変厳重な施設であったが、現在は鉄道や高速道路などによって分断されている。

大和朝廷が七世紀に造った国防城塞 大野城
斉明天皇6年(西暦660)、朝鮮半島では日本の友好国百済(くだら)が唐(とう)・ … 続きを読む →


現在大規模な改良工事が進んでいる。

衣掛天神、菅原道真がここで旅の衣を脱いで傍らの石に掛け新しい衣に着替えたとされている。

姿見井、菅原道真が衣服を着替えた時に、姿を映した井戸がここにあったという。

奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、筑前国国分寺の後継寺院にあたる。

画像は講堂跡。

塔復元模型、塔は七重で、その10分の1の復元模型が太宰府市文化ふれあい館の屋外に展示されている。

復原した高さは5.4m、実際はその10倍ということになり、遠くからでも見ることができたでしょう。

棟の右側に米粒大に見えるのが人物。

国分寺とは無関係だが箱式石棺、箱式石棺は弥生時代から古墳時代に用いられたお墓のひとつで、石を並べて小さな部屋を作り、その中に遺体を埋葬し、何枚かの石で蓋をしたもの。

大野山霧立ち渡るわが嘆く息嘯(おきそ)の風に霧立ちわたる  巻五(七九九)

大野山に霧が立ち渡るよ、わたしの嘆く息の風によって霧が立ち渡るよ

大伴旅人が大宰府の帥(そち)として着任したがすぐに妻の大伴朗女(いらつめ)は病死した。
    
この時、山上憶良が大伴旅人の気持ちになりきって詠んだ歌。
大野山に棚引く霧を、深い嘆きの息が霧になったと詠んでいます。

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