旧宇陀郡松山町。宇陀松山とも呼ばれる。
江戸時代、宇陀松山藩の陣屋町として栄え、現在もその風情を残しており、一部が国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
宇陀松山城の西側の地区は古代は阿騎野と呼ばれた宮廷の狩猟場であった。
現在の街区は戦国時代に国人領主秋山氏により築かれた秋山城の城下町を起源とし、その後豊臣秀長配下の大名により現在の町並みの原型が形成され、地名が阿貴町から松山町に改められたとされる。
「森野旧薬園」のはじまりは、江戸時代中期。当時の森野家当主・森野通貞によって開園された。
通貞は若い頃より薬草木を愛好し、自宅の敷地内で栽培・研究をしていた。
そのことが、漢方薬の自給自足と農事振興の施策をとる当時の幕府の目に止まり、通貞は幕府の採薬使であった植平左平次とともに近畿一円、美濃、北陸地方の山野からも薬草を採取、幕府に献上した。
その報賞として幕府より得た貴重な薬草を自家の薬園に植えたのが、「森野薬園」のおこりである。
明治以降は海外からの新薬が日本に入るようになり、国内の薬園は次々と廃園となったが、「森野薬園」は江戸時代の面影をそのまま残す希少な薬園であることから、大正15年(1926年)に国の文化財史跡に指定された。
現在も「森野旧薬園」では、250種類以上の薬草木を見ることができる。
宇陀松山が拓かれたのは戦国時代「宇陀三将」と呼ばれた一人、秋山氏の築いた城の城下町として発展してきた。
以後、様々な時代の変遷を経ながら、今の松山の町並みが作られてきた。
元和元年(1615)に城が破却され、宇陀松山藩となってからは織田家の支配となるが、元禄7年(1694)に国替えとなり、松山町は天領となる。
交通の要衝であった松山町は「宇陀千軒」「松山千軒」と呼ばれ、江戸時代から活況を呈するようになってきます。
宇陀松山のまち並みには、酒蔵や醤油蔵、和菓子屋などが点在しており、そのどれもが宇陀の地にちなんだものを製造・販売している。吉野葛や日本酒も、この地域だからこその品。
昔から宇陀を代表する銘菓「きみごろも」
城山に残る秋山城の石垣。破却されてから長く、城の名残を辿れるものは多くない。
春日門跡を越えると、石鳥居に続く参道へ。
左右は住宅街だが、その石垣がすごい。
春日門の上は武家屋敷だったとあるので、武家屋敷跡にそのまま家が建っているのかもしれない。と妄想してみる。
春日神社の創建について詳しくは分からない。
しかし、宇陀郡内には興福寺大乗院門跡管領の春日大社領が多く存在し、当社地も中世の春日庄(応永十三年(一四〇六)作とされる「宇陀郡田地帳案」(春日大社文書)に位置することから、奈良春日大社を勧進したものと考えられる。
宇陀松山城と城下町の縄張りを示した「阿紀山城図」(文禄三年写・一五九四)という絵図には「春日社」として社地が表されている。
また、絵図に示された宇陀松山城へ向かう大手道は、西口関門から春日門を経ていったん春日神社へ入る。
そして、神社から再び城へ向かう構造をとる。つまり、この時代の春日神社は、城郭の郭としての機能も併せ持っていたのである。
宇陀松山城跡訪問記。
古代は阿騎野と呼ばれた宮廷の狩猟場 宇陀陣屋
宇陀松山城は宇陀郡を領分する有力国人宇陀三将(秋山氏、芳野氏、沢氏)の一人、秋山 … 続きを読む →
手水舎の横、左側には旧秋山城の天守閣からの抜け穴跡があったという。
春日神社。奥には石垣で一段高くなったところに赤い本殿が見える。まるで城だ。
この辺りが屋敷跡と思われる。
豊臣系家臣の時代に現在の町並みの骨格が整備され、西口関門もこのときに建立された。
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宇陀松山へのアクセス、行き方歩き方
近鉄大阪線榛原駅下車
奈良交通「大宇陀」行き約15分