万葉集と古代史の謎を訪ねて 阿騎野

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現在県宇陀郡大宇陀町を中心としたこの一帯は、飛鳥時代には菟田の「阿騎野」と呼ばれ、大和朝廷の御狩場の一つがこの地におかれていた。

初夏を迎える5月になると、皇族たちや朝廷の高級官吏たちがこの地で薬猟(くすりがり)を楽しんだ。

中山正實画伯の壁画「阿騎野の朝」をもとに作られた柿本人麻呂像。

「かぎろいの丘」を望む。

ここは中之庄遺跡を埋め戻して整備された阿騎野・人麻呂公園。

中之庄遺跡のあたりは、大宇陀町のほぼ中央部で、宇田川支流の本郷川と黒木川に挟まれた微高地。

この地からは、東の”かぎろひ”の立つ高見山をはじめとして、宇陀の連山や吉野の連峰などを望むことができる。

弥生時代の遺構としては、前期から中期にかけての土坑と、方形に溝を巡らした墓が見つかり、この地が宇陀地方の中でも最も古く、弥生時代前期から生活の痕跡が残る重要な場所であることがわかった。

飛鳥時代のものとしては、桁行5間、梁間2間の規模を持つ大型の掘立柱建物を中心にして、付属する建物群や、石敷溝、苑池状遺構などが周囲に配置されていた。

同時に出土した土器から、これらの遺構が作られた時期は7世紀後半から末ごろと推定され、古代の狩(薬猟)場とされた「阿騎野」の重要施設が当地にあったことが判明した。

現在県宇陀郡大宇陀町を中心としたこの一帯は、飛鳥時代には菟田の「阿騎野」と呼ばれ、大和朝廷の御狩場の一つがこの地におかれていた。

初夏を迎える5月になると、皇族たちや朝廷の高級官吏たちがこの地で薬猟(くすりがり)を楽しんだ。

薬猟とは、鹿の若角をとる猟のことをいう。鹿の若角は鹿茸(ろくじょう)と呼ばれ、陰乾しにして補強壮剤として用いられた。
薬猟が変じて薬草採りを表すようになるのは、もっと後の時代になってからである。

一般には、このとき女性たちも参加して薬草を摘んだとされるが、史書からはそのような事実があったかどうか確認できない。

薬草の本場が宇陀となったのは、薬猟の狩場になった山野だから、薬方の権威の地として名が高まったのです。

大宇陀町には日本最古の薬草園が今日も営業しています。(黒川重太郎商店、森野薬草園)

和薬方としてわが国最古の医薬辞典である「大同類聚方(808年)は、和薬処方100巻の大著です。
その中にオオクニヌシの薬方が40条を数えその多くが宇陀産の薬石を素材としていたとみられます。

「かぎろいの丘」

推古天皇19年(611)の陰暦5月5日、菟田野で薬猟(くすりがり)が催された。
これが文献上で確認できる、この地方で行われた最初の薬猟。

その頃は、公園内に復元された掘立柱建物や竪穴式住宅などは、恐らく無かったであろう。
朝廷の御狩場として定着するに従って、さまざまな施設が作られていったと推測される。

東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ 柿本人麻呂 巻1-48

やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 神ながら 神さびせすと 太敷ふとしかす 都を置きて

こもりくの 泊瀬はつせの山は 真木立つ 荒山道を 岩が根 禁樹さへき押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば
み雪降る 阿騎の大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて
柿本人麻呂 巻1-45

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