有間皇子悲劇の地 藤代坂を訪ねる

和歌山県
カレンダー
2024年4月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  


熊野古道の一丁目地蔵丁石地蔵と云って、1丁ごとにあります。

悲劇の皇子、有間皇子遺跡にさしかかる直前にある。

そこには悲劇の皇子、有間皇子の墓碑と、皇子が詠んだ歌碑が建つ。

家にあらば 笱けに盛る飯いいを
草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

有馬皇子 巻2-142

斉明天皇の時代、有間皇子は謀反の罪に問われ、この藤白坂で絞殺された。
まだ19歳だった。

斉明天皇(中大兄皇子の母)が中大兄皇子以下を伴って、紀伊国牟婁温湯(現和歌山県西牟婁郡白浜町湯崎温泉)に療養に行っている最中、都の留守居を任されていた蘇我赤兄に謀反の謀議を持ちかけられ、味方と信じて相談に応じた有間皇子は言質を取られて、その夜半捕らえられ中大兄皇子の滞在する紀伊国牟婁温湯へ送られることになる。

中大兄皇子の詰問に対し、「天と蘇我赤兄のみぞ知る、我知らん」と答えたそうで、既に出来上がってしまっている謀議に有間皇子は為すすべがなかったようである。

その帰り道にこの藤白坂を下った所で、蘇我方の護送人の手により最後を遂げることになる。

次の句は、護送される道中に有間皇子が詠ったものであるが期せずして辞世の句となってしまうのである。

          家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば椎(しい)の葉に盛る      万葉集第2巻 142番

         磐代の浜松が枝を引き結び 真幸(まさき)くあらばまた還り見む             万葉集第2巻 141番

藤白のみ坂を越ゆと白たへの 我が衣手は濡れにけるかも
作者不詳ですが、有間の皇子悲憤の死を嘆いた旅人の作だと思われる。

若くしてこの藤白坂で絞殺された有間皇子のことを思って、涙を流したのだと思います。
すでに天智天皇(=中大兄皇子)にはばかる必要のなくなった時代の歌です。

斎明天皇の658年に謀反の罪を着せられ11月11日、紀州藤白坂で処刑された御年僅か19歳の悲劇のヒロイン・有馬皇子を偲び熊野への入り口ともいわれる熊野古道五躰王子の一つ、藤白神社境内にある「有馬皇子神社」では「有馬皇子まつり」が催される(有馬皇子の命日11日に最も近い日曜日に開催)。

境内にある藤白王子権現本堂に祀られている本地仏3体。
手前から熊野那智大社の千手観音像、熊野本宮大社の阿弥陀如来像、熊野速玉大社の薬師如来像。いずれも平安末期の作。

これらの仏像はもともと藤代王子の神宮寺であった中道寺に祀られていたものであったが、豊臣秀吉の紀州征伐に際して危害が及んだ際に縁の寺院に避難させていたものを江戸時代に復したものである。

明治の神仏分離の際の破棄を免れ今日に伝わっている。

藤白神社(ふじしろじんじゃ)は、九十九王子のなかでも別格とされた五体王子のひとつ藤代王子の旧址で、「藤代神社」「藤白権現」「藤白若一王子権現」などとも呼ばれた。

斎明天皇が紀の温湯に行幸の際、創建されたと言われる。

有馬皇子木像。

南方熊楠は、藤白王寺の境内にあるこの社から「熊」・「楠」の字を授けてもらった。

また、兄妹の名前に見える「藤」の文字も子どもが生まれると、この社から授けてもらい神の加護によって無事成長することを祈って命名した。

これは楠の木に対する信仰に由来する。

藤白王子が周辺二十四か村の産土神であり、楠木神社から名を授かる風習のあったことは『紀伊国名所図会』にもみえる。

巻9 1672 「黒牛方 塩干乃浦乎 紅 玉ネ君須蘇延 往者誰妻」
「黒牛潟 潮干の浦を くれないの 玉裳すそ引き 行くは 誰が妻」

黒牛潟で潮が引いた浜辺を、紅の裳の裾を引きながら優雅に歩いている女官はいったい誰の妻だろう。

入り江に 黒い牛の形をした岩が磯にあったので黒牛の江から黒江の地名となった。

昔から この黒江湾は遠浅で潮干刈りが盛んに行われた。

万葉人も 海のない大和の国から 初めて目の前に広がる遠浅の海に出会い感動して若い女官が紅(くれない)の 衣のすそを捲り上げ、貝掘りや、優雅に戯れている姿を見て
此の歌を 謡ったものでしょう。

今では湾の干拓が進み境内からその姿を眺めることはできない。

すっかり日が落ち夕闇の迫。藤白坂を見ながら家路を急ぐ。

磐代の 岸の松が枝 結びけむ 人は帰りて また見けむかも 
・・・・・・・・・・
磐代の岸の松の枝を結んだという人は

再び帰ってその松を見る事ができたのだろうか
・・・・・・・・・・

この歌は長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)が持統天皇の紀伊行幸(持統四年のことか)に従駕したときに、磐代の結び松を見て詠んだとされる一首。

「結びけむ人」とはこの場合は遠い昔に磐代の松を結んだとされる有間皇子を思い出してのもので、長忌寸意吉麿たちのこの時代にもまだ松を結ぶ風習は残っていたものと思われます。

謀反の企みが露見した有間皇子は中大兄皇子のいる行幸先に尋問を受けるため移送されるときに磐代の浜松を結んで道の無事を祈りました。

「盤代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む(磐代の浜松の枝を結び合わせてこれより先の無事を祈ろう。命があって帰ってこれたらまたこの枝を見たいものだなあ。)」と…

その後に、有間皇子は中大兄皇子の尋問を受けた帰り道に藤白の坂に至っとところで絞殺され、自分が結んだ松の枝をふたたび見たかどうかは定かではありません。

有間皇子事件についてはおそらく当時の多くの人々も中大兄皇子の策謀と知っていたようで、有間皇子が祈った磐代の浜松にはまだその無念の思いが残っていると強く感じていたようです。

持統天皇の行幸にしたがってそんな磐代の岸を行く時に、長忌寸意吉麿たちも道の無事を祈って浜松を結んだのでしょう。
そして、自分たちの前に結ばれていた松の枝を見て、遠い日の有間皇子の無念を思い出したことと思います。

「かつてこの岸の松の枝を結んで道の無事を祈ったといわれる有間皇子は、そののち自分の結んだ松の枝を見ることが出来たのだろうか…」と。

そんな有間皇子の魂を慰める鎮魂歌として、この場にいた多くの者たちが長忌寸意吉麿の詠んだ歌をともに口ずさみ皇子の無念の魂を慰めたことでしょう。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!