激動の人生を送った平清盛だが、彼をとりまく女性たちもそれぞれ波乱に満ちた人生を送った。
祇園女御供養塔~芭蕉堂~西行庵~石塀小路
清盛ゆかりの地を訪ねようと八坂神社、六波羅蜜寺、六道珍皇寺、円山公園一帯を散策した。
冬の京都はゆっくり散策するには静かでもってこいの季節です。
祇園四条駅下車 東へ徒歩10分
鎮座地は後世九条家の邸宅に取り込まれて同家の鎮守として崇敬されるとともに、池泉廻遊式庭園の1部を構成するものともなっている。
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡、建礼門院は一門と共に入水したが、敵方の源氏の手によって助けられた後、この長楽寺で髪を下ろし仏門に入った。
本堂内にはそれにまつわるいろんな資料が所蔵展示してある。
また花の名所としても知られている寺である。
祇園四条駅下車 東へ徒歩15分
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二つの悲恋を語り継ぐ寺 滝口寺
建礼門院徳子に仕えていた横笛の恋人・滝口入道(斉藤時頼)は、周囲に二人の関係を反対され出家。
会いに来た横笛を心苦しくも追い返したと記される「平家物語」悲恋の地です。
嵐電嵐山駅 北西へ約20分
平清盛の寵愛を受け、のちに仏御前に愛を奪われて捨てられた白拍子の祇王が、母や妹とともに嵯峨の山里で尼僧となり生涯を送ったという悲しい物語りです。
萠え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いずれか秋に あわではつべき
ところがある日、罪の意識と無常を感じたのか仏御前が共に出家したいとこの庵を訪ね、不思議なことに4人で念仏三昧の日々を送るに至ったと伝わる。
嵐電嵐山駅下車 北西へ約20分
諸行無常の響きあり 寂光院
寂光院は、平家の悲しい運命を伝える寺院としても有名で、「壇ノ浦の戦い」で敗れた平清盛の娘、建礼門院が文治元年(1185)出家した後、お住まいになったことでも知られます。
彼女は壇ノ浦で入水しましたが、助けられた後は終生ここで源平戦の犠牲者である息子、安徳天皇と平家一族の冥福を祈ったのでした。
出町柳または叡山電車八瀬比叡山口駅から京都バス大原バス停下車 北西へ約20分
平安時代、平安京から遠く離れた大原は、文徳(もんとく)天皇の第一皇子でありながら皇位継承争いに破れた惟喬(これたか)親王や、平清盛の娘・建礼門院徳子、歌人・西行らが過ごした隠棲地でもありました。
やがて建礼門院は病にかかり、建久(けんきゅう)2年(1191)2月中旬、その生涯を寂光院で閉じました。阿波内侍が建礼門院の最後を看取ったといいます。
阿波内侍は、手拭(てぬぐ)いを頭にかぶり、手に白の甲掛(こうがけ)、足に白足袋(たび)をして炭や薪、柴を頭の上に載せて京の都で売り歩いたという「大原女」のモデルとされている人でもあります。
渡月橋北詰めにも「琴きき橋跡」の石碑。
高倉天皇がすっかり小督に熱をあげてしまったことを聞いた清盛は、小督が居る限り、二人の婿達天皇自身と隆房に良いことあるまじきとて、亡き者にしようとした。
小督はいち早く、それを感じ、内裏を失踪してしまいました。
天皇は小督の行方が嵯峨方面との情報を得て、笛の名手で、小督とも合奏経験のある、弾正少弼だんしょうのしょうひつ京の内外を巡察、違法者を摘発する三等官源仲国に探索を命じました。
仲国は嵯峨の各所を巡り、やっと亀山近くで、小督の琴の音に遇いました。渡月橋袂にあった琴聞き橋がその場所とされます。
嵐電嵐山駅 北西へ約10分
平家物語に登場する小督局(こごうつぼね)は清盛の娘が中宮となった高倉天皇の寵愛を受けていたので平清盛に追われてこの寺で尼にさせられました。
天皇は「死んだら小督局のいる清閑寺に葬ってくれ」と遺言され、養和元年(1181)没後、葬儀がこの寺で行われ、遺言通り埋葬された。
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