額安寺(かくあんじ)は奈良県大和郡山市額田部寺町(ぬかたべてらまち)にある真言律宗の寺院。
山号は熊凝山(くまごりさん)。本尊は十一面観音。
寺名は「がくあんじ」ではなく「かくあんじ」と呼ばれている。
大和川と佐保川の合流地点付近に位置する。
飛鳥時代に聖徳太子の建立と伝えられ、大安寺の前身である熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)跡ともいわれるが、実際にはこの地を本拠としていた豪族額田部(ぬかたべ)氏の氏寺として建立されたものと思われる。
天平19年(747年)の『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう、国立歴史民俗博物館蔵)によれば、南都七大寺の1つである大安寺の前身は、聖徳太子が額田部の地に建立した熊凝精舎であって、これが後に移転と改称を繰り返した後、平城京の大安寺となったという。
しかし、熊凝精舎を大安寺の前身とする説は他に裏づけとなる史料がなく、疑問視されている。
大安寺の平城京移建に貢献した僧・道慈が額田部氏出身であることから、このような説が生じたのではないかとも言われる。
境内に足を踏み入れると宝篋印塔(大和郡山市指定文化財)が目を引く。
これは鎌倉時代の叡尊の弟子・慈真和尚が母のために作ったものと伝えられており、数年前まではお寺の南東にある池の島に立っていたそうだ。
記銘の残るものとしては日本で三番目に古い文応元年(1260年)のもの。
寺号の由来は、 推古天皇が額に瘍を病まれた際に、熊凝精舎の薬師如来に祈願されたところ、跡形もなく快く平癒されたことから「額安寺」の名を賜ったと伝えられている。
鎌倉時代、忍性上人により復興。
鎌倉時代に仏像修理などの復興活動を行ったのが忍性上人です。
額安寺周辺の出身である忍性上人は、文殊菩薩を本尊とした社会的弱者の救済活動を行った人物で、今日においての社会福祉事業に貢献した僧として有名です。
南都七大寺の一つ西大寺に住み、奈良市の奈良坂に日本最古の救癲施設(ハンセン病患者救済施設)「北山十八間戸」を建て、「文殊を供養する人の前に、文殊は貧しく身寄りのない人に化して出現する」という考えのもと、物乞いに出られない重症の癲者を背負って町に出て、物乞いの手伝いをしたと言われています。
「北山十八間戸」は奈良を気ままに散策の記事の中で紹介しています。
また、額田王が歌の勉強をしたのがこの寺ということで、NHKの歴史秘話ヒストリアの取材があったそうです。
「ここには、額田王のものなんて何も残っていませんよ。」と言っても、取材にやってきたそうです。
おかげで、当寺と額田王との関係を知ることが出来たと言っておられました。
「文化庁が、奈良・額安寺所蔵の重要文化財「乾漆 虚空蔵菩薩半跏像」一軀を買い上げ、奈良国立博物館寄託と聞きました。
価格は約5億4千万円なり。?
額安寺を代表する美しい仏さまだったけど、お寺の維持にお金がかかるのかなあ。」
額安寺の近くには近くに推古神社があり、推古天皇の生前の実名は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と呼ばれ、額田部の地名が推古天皇と重なります。
推古天皇は頭脳明晰な人物で、聖徳太子が49歳で薨去した後も、自身が75歳で小墾田宮において崩御するまで、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図ったと言われています。
鎌倉五輪塔【重要文化財】
額安寺の北西にある石造五輪塔群で、この辺りは通称『鎌倉墓』とも言われています。
五輸塔は西側に東面して5基、北側に南面して3基が鍵の手に並んでおり、東端および南から4番目のものに永仁5年(=1297年)の銘があることから、鎌倉時代後期に造立されたものと思われます。
昭和五十七年の調査修復工事によって、第一塔が忍性菩薩、第二塔が善願上人の供養塔であることが確認され、忍性菩薩の墓から発掘された骨蔵器等は、中世の高僧の墓制を知る上で貴重な発見となりました。
中世の五輪塔がこれほど完全な形で残されているのは珍しいと言われています。
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額安寺へのアクセス、行き方歩き方
奈良県大和郡山市額田部寺町36
近鉄橿原線平端駅より徒歩約20分