今日のお昼は 『義経千本桜・鮨屋の段』でお馴染みの「つるべすし弥助」、前回訪問時も訪れたが今回は少し詳しく報告します。
つるべすし弥助は、歌舞伎「義経千本桜鮨屋の段」の舞台となった料理店。
現存する鮨店では、最古のお店です。
なんと、文治年間(1185年〜1189年)に創業され、ゆうに800数十年の歴史。
京都の老舗でも中々無いほどの歴史を持つお店です。
風格ある佇まいのお店は昭和14年(1939年)に建造。
昭和初期に界隈で大火があり建て直したそうですが、それでも十分存在感があります。
創業800有余年、歌舞伎「義経千本桜」三段目「すし屋」の舞台となったつるべすし弥助は吉川英治や谷崎潤一郎などの文人のほか、美空ひばりや藤島桓夫やディック・ミネなどの歌手も訪れた老舗。
つるべすしとは酢でしめた鮎のお腹にすし飯を詰めたもので、それを入れていた桶の形が井戸水をくみ上げるつるべに似ていることがその名の由来。
戦前から続く風情ある佇まいの木造三階建、ベンガラの赤壁にせまる崖に見立てた山庭を三階の大広間から一望でき、贅沢なひと時が味わえます。
鮎料理を中心とした懐石料理や寿司定食、土産物に最適な鮎ずしも用意されています。
こちらのお店の伝統ある鮨とは、すなわち「釣瓶鮨」。
特徴的な姿の桶(釣瓶)に鮎と飯を入れて、棒に吊るして鮨にしたといいます。
詳細は、天然鮎を開き飯を抱かせ、釣瓶に竹の皮を敷いた後、二匹向い合せに丸い形状となるよう押し込み、三段重ねで蓋をして、籐でしっかり締めた上で、4~5日醗酵て作る生馴れ鮓とのことです。
弥助は、慶長年間に仙洞御所(上皇)に鮎鮨を調進した鮨屋でもある。
こちらのものは、釣瓶形曲桶に塩漬けした鮎と飯を漬け発酵させたナレズシで、「釣瓶ずし」と呼ばれた。
本来のナレズシは数年間発酵させるので、飯はどろどろに溶けて食べられなくなるが、弥助のナレズシは発酵に1ヶ月程度で、飯も食べられるナマナレ(生成)である。
しかし、こうした製法も採算が合わず、数十年前にやめてしまったという。
全国の寿司屋の看板に、「弥助」や「よしの」の名が多いのも、起源はこのお店に由来したものだとか。
今回いただいたのは...。
○前菜
○小鉢物
○鮎の唐揚げ野菜あんかけ
○焼鮎ちりめん山椒鮨、柿の寿司、赤だし
○フルーツ、鮎菓子
この日、出された鮎寿司は「焼鮎ちりめん山椒鮨」で、鮎を蒲焼風に焼いて押した箱鮨。
オーダーによっては、塩付けした生鮎を酢洗いし押した「鮎の姿鮨」というのもいただけるようだ。
揚げ物として出てきたのが、鮎の唐揚げ野菜あんかけ。
三度揚げしたという鮎の唐揚げに中華風の餡をかけたものだが、頭から尾まで骨ごといただける。
あぶり鮎をそうめんの出汁として使うと、鮎独特の旨みを味わうことができるが、三度揚げすることによって、そうした旨み成分が凝縮し閉じ込められ、思わず笑みがこぼれる。
49代当主宅田弥助氏による歌舞伎や料理にまつわる話を拝聴。
歌舞伎や文楽でも演目として名高い。その物語はこう始まる。
「さて、時は源氏の天下。源平合戦に敗れた平家一門の残党狩りが始まっている。舞台は吉野のつるべ鮨屋。この家に、平惟盛が弥助と名をかえて下男としてかくまわれている。鮨屋の主人弥左ェ門の娘お里は、今宵、弥助と祝言だと大はしゃぎ。そこへ、この屋の長男で今は勘当の身となっているいがみの権太が金をせびりにやってきた。…」
この演目の舞台「吉野のつるべ鮨屋」こそ、このお店「弥助」そのものなのだ。
創業800有余年とうたっているのはそうした由縁だろうが、あくまでも『吉野千本桜』の脚本上の話らしい。
しかし、先の弥助庭園内には、維盛塚・お里黒髪塚・お里姿見の池等の遺跡があり、近隣には権太の墓・小金太の墓まである。
歌舞伎ファンからしてみれば、ここで鮎料理に舌鼓をうち、所縁の場所をまわるという趣向はこたえられないだろう。
吉川英治氏も昭和30年に来訪し、「浴衣着て ごん太に似たる 男かな」という句を残している。
さてクライマックスは後半部分・・・・・
鮨屋の娘お里は、この家にいる弥助と祝言を挙げることになっている。
兄のいがみの権太が入ってきて、母から三貫目の金をだまし取って帰ろうとすると、親父の弥左衛門が戻ってきたので、あわてて金を鮨桶に隠して、奧に引っ込む。
帰宅した弥左衛門は、ある生首を鮨桶に隠し、弥助をうやうやしく上座に据えて、維盛(これもり)の首を出せとの詮議が厳しいので隠居所の上市村へ隠れてくれ、という。
そこへ、一夜の宿を求める旅人が来る。
維盛の妻と子であった。維盛は再会を喜ぶが、事情を知ったお里は嘆くばかりである。以上の事情を知った権太は、したり顔で鮨桶を持って去って行った。
詮議の梶原景時(かじわらかげとき)らがやって来た。
弥左衛門が、維盛に替えての首を鮨桶から出そうとすると、桶の中にあるのは三貫目の金。
その時、「首は取った」と権太が鮨桶を抱え、縄をかけた女子供を連れてくる。
梶原は「よく討った」と権太を褒めて帰るが、実は維盛の妻子と見えたのは権太の妻と子。
そして、首は親父の用意した首であった。
[見どころ]
お里が弥助に、早く寝ようと言っても、弥助がもじもじしている。
お里は戸口に立って、「お月さんも寝やしゃんした」という。
お里は可愛くて、茶目っ気があって、はきはきした娘。弥助を維盛と知らないうちは、弥助に対していつも能動的なのが、お里である。
終局で、権太が親父に斬られてからの申し開きがあって、いがみといわれた男が、善に立ち戻る。
もどり、といわれる歌舞伎の作劇法の一つである。
もどりになるまでは、いがみの人格で終始しなくてはいけない。こういう演目の、これは約束である。
玄関先に維盛の旧跡の碑が建つ。
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つるべすし弥助へのアクセス、行き方歩き方
奈良県吉野郡下市町下市533
TEL.0747-52-0008
定休日/月曜日 ■営業時間/11:30~22:00(要予約)
近鉄下市口駅から奈良交通バス 下市本町下車、徒歩約1分