壬申の乱と女性たち 宮滝

奈良県


青根ヶ峰の信仰

天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)、神武天皇一行は、八咫烏命に導かれ井光を通って吉野の宮瀧へ到着し、仮宮を造営する。
この位置から青根ヶ峰がのぞめる。

み吉野(よしの)の、青根(あお)が岳(たけ)の、蘿(こけ)むしろ、誰(た)れか織(お)りけむ、経緯(たてぬき)なしに

作者不詳

神聖視された神奈備・青根ヶ峰に端を発する清流は、やはり特別なものだったに違いない。
神聖な川水は吉野川へとそそぎ込み、都人が憧憬を寄せた「たぎつ河内」を育んだ。

斉明天皇の吉野宮は、青根ヶ峰を真南に見るように建てられていたという。

柴橋から上流を見る、こちらは川幅いっぱいに川が流れていて、「滝つ河内」と呼ばれている。

この滝というのは高低さがある滝ではなく、「激(たぎ)つ」という意味で、水流が激しい場所をいうのである。
ところがこの水量であるので、いまではとてもタギツとはいえない。

吉野山から流れる像の小川がこの吉野川に合流する地点を「夢のわだ」といいます。

柴橋に出ると、谷底が見えた。高さは10mほどであろうか。川岸は岩壁である。激しい水流が時間をかけて穿った岩壁である。

中岩の松、対岸を見る、吉野山に南朝の皇居があった時、まだ幼かった寛成親王(後の長慶天皇)が狩りに来られ、吉野川の水面に映える松の美しさを愛でられ「この松を後村上天皇に奉ろう、岩ごと皇居へ持ち帰れ」と供の者にむずかれたと言う逸話が残っています。

奈良時代の「吉野離宮」の復元イメージ図(吉野町教委作成)
宮滝遺跡は、日本書紀や続日本紀などに記されている飛鳥時代の「吉野宮」、奈良時代の「吉野離宮」の施設跡とされている。

記述によると、吉野宮は斉明2(656)年に造営され、大海人皇子(のちの天武天皇)が壬申の乱の際に吉野宮に籠って挙兵。

天武即位後も行幸し、その皇后だった持統天皇は在位時と退位後合わせて34回も行幸した。
その後も文武、元正、聖武天皇が「吉野離宮」「芳野(吉野)宮」に行幸している。

吉野宮、吉野離宮があった場所については吉野町宮滝以外にも説があるが、昭和5年~13年の宮滝遺跡第1次調査で奈良時代の瓦や石敷き遺構などを発見。

50年の第2次以来の調査でさらに、飛鳥時代は大きな人工池と関連施設があり、「全体が巨大な『庭園』として機能していた」と推定されるようになった。

奈良時代には一辺120~150メートルの方形の区画内に掘っ立て柱建物などが設けられていたことも判明。
宮滝遺跡が吉野宮、吉野離宮の跡と考えられるようになった。

679年(白鳳8年)(=天武8年)5月5日に吉野へ行幸。
6人の皇子は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、草壁皇子を次期天皇とし、お互い助けて相争わないことを誓わせた。

その内志貴皇子は天武天皇の兄・天智天皇の第7皇子であったが、この盟約が記録上初の登場であった。

681年(白鳳10年)(=天武10)年には草壁皇子は皇太子となるが、器量優れたライバルの大津皇子も政治に参加することとなり結局天武天皇の後継は曖昧なものとなってしまった。

そして、そうした内に天皇は崩御し、大津皇子は謀反の疑いをかけられて非業の最期を遂げたが、草壁皇子もまもなく夭折。

大津皇子(おほつのみこ)薨(かむあが)りましし後に、大伯皇女(おほくのひめみこ)の伊勢(いせ)の斎宮(いつきのみや)より京(みやこ)に上(のぼ)りし時に作りませる御歌二首

神風(かむかぜ)の伊勢の国にもあらましをなにしか来(き)けむ君もあらなくに

巻二(一六三)
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神風の吹く伊勢の国にいればよかったのになぜ都に帰ってきたのだろう。愛しい君ももういないのに。
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この歌は持統天皇が即位したことで伊勢神宮の斎宮の職を解かれた大伯皇女が都に戻ったときに詠んだ二首のうちの一首です。
この歌の君とはもちろん弟の大津皇子。
あのまま伊勢の国にいればよかったものをなぜ都に帰ってきたのだろう。愛しい君ももういないというのに…と、弟のいない都に帰って来た寂しさを歌に込めています。

大伯皇女がこの世に最後に残した絶唱 「大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はぷ)る時、大来皇女の哀しび傷む御作歌二首」。

うつそみの 人にあるわれや 明日よらは 二上山を 弟世(いろせ)とわが見む

大伯皇女は、ここで持統天皇をあわてさせている。
大伯皇女はヤマトに戻ってきて大津皇子をヤマトを代表する霊山でよく目立つ二上山に移葬したのだ。
謀判人の遺骸を、勝手に移葬してしまったとなれば、当然処罰を受けねばなるまい。

しかし、持統天皇は手を下せなかったのだ。

これは持統天皇の敗北だ。

ここで持統天皇にまつわる二つの謎が浮上。

まず第一に、即位の謎だ。
親蘇我派の皇族や蘇我系豪族を敵に回してしまった時点で、草壁皇子の即位の芽は絶たれたはずだ。

そうなると、なぜ草壁皇子亡きあと、持統天皇自身が皇位を継承できたのだろう。
何故周囲がこれを認めたのか。

第二に、持統天皇は何を望んでいたのか、なぜ皇位に執着したのか。

謎はまだまだある。
696年、高市皇子が亡くなった時懐風藻は、皇太后は皇位継承問題を議論させたと記述。

天皇でなく皇太后と呼んでいる、日本書紀では690年に持統天皇即位となっている???。
天武天皇が亡くなったのが686年、その間誰が天皇だったのか。

まだある、やすみしし わが大王の 天の下 申し給へば 万世(よろずよ)に 然しもあらむと ・・・・・柿本人麻呂の高市皇子への挽歌。

なんと、高市皇子を大王とうたっているのだ。

持統天皇は食わせ物だった。
良妻賢母のふりをして、夫・天武天皇の政権を「反蘇我派の藤原不比等」に売り渡していたのだ。

史実を改竄・偽作した日本書紀の編纂途中で、持統天皇は、日本書紀に都合よく整合させるため、古代から由緒ある神社の古文書や豪族の系図を没収し、抹殺してしまった。

この辺りの事情は前回訪問時の記事に書いた。
古代史ミステリー 壬申の乱と女性たち-1

「宮滝は滝にあらず」。貝原益軒が『和州巡覧記』に書いたように、名称から誤解されることが多い宮滝。
古語の「タギツ」は川水がたぎり流れるところ。激流する「たぎつ瀬」である。

「私の旅は長くはないだろう。吉野川の夢のわだよ、浅瀬にはならず淵のままであっておくれ」。
歌に込めた願いどおり、大伴旅人は大宰府赴任から二年で帰郷している。

しかし、望郷の象徴であった吉野の「夢のわだ」を見ることなく、翌年に亡くなったという。

やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 激(たぎ)つ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳(たたな)はる 青垣山(あおがきやま) 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみじ)かざせり 逝(ゆ)き副(そ)ふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると 上(かみ)つ瀬に 鵜川(うかわ)を立ち 下(しも)つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川も 依(よ)りて仕ふる 神の御代かも

柿本朝臣人麿 巻一(三十八)

反歌
山川も依(よ)りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも
巻一(三十九)
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わが天皇が、神そのものとして、神々しくおられるとして、吉野川の流れ激しい河内に、見事な宮殿を高くお作りになり、そこに登り立って国土をご覧になると、何層にも重なる青い垣根のごとき山では、山の神が天皇に奉る貢ぎ物として、大宮人らは春には花を挿頭(かざし)に持ち、秋になると紅葉を頭に挿しているよ。
宮殿をめぐって流れる川の神も、天皇の食膳に奉仕するというので、大宮人らは上流には鵜飼いを催し、下流には網を渡して魚を捕っているよ。
ほんとうに、山も川もこぞってお仕えする神たる天皇の御代だなあ。
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この歌も持統天皇が吉野の宮に行幸したとき、同行した柿本朝臣人麿(かきのもとのあそみひとまろ)が詠んだものだといわれています。

宮滝醤油の駐車場の辺りが吉野宮の跡と言われる。

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宮滝宮跡へのアクセス、行き方歩き方

奈良県吉野郡吉野町宮滝

近鉄大和上市駅からバスで15分(湯盛温泉杉の湯行バス宮滝下車)
宮滝から徒歩で5分