崇峻天皇弑逆事件の謎

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倉橋に来たついでに崇峻天皇弑逆事件の謎について考えてみよう。
諸説入り混じりますが、大方の一致するところは藤原氏による歴史改竄説。
そう、日本書紀は真実を隠しているというものです。

忍阪から倉橋の池へ向かう途中に多武峰から北西に延びる尾根の先端に築かれた大方墳、赤坂天王山古墳がある。

『日本書紀』に崇峻天皇は暗殺された後に倉橋の地に葬られたと記されており、この地域で造られた古墳で該当するものは赤坂天王山古墳以外には見あたらないため、明治時代に南西に1.7Kmほど離れたところにある現在の倉梯岡上陵に治定されるまでは、本古墳が崇峻天皇陵に擬せられていた。

歴史学者・考古学者の間ではいまなお本古墳が崇峻天皇陵として有力視されている。

粟原川(おおばらがわ)をはさんで対岸の北方1km、忍阪(おっさか)地内の外鎌山には舒明天皇・押坂内陵治定の押坂段ノ塚古墳・鏡女王墓・大伴皇女墓が、東方の粟原川上流部の粟原地内にはムネサカ古墳・越塚古墳がある。

倉橋池は昭和21年に粟原川の支流をせきとめて作られました。

付近には蘇我馬子によって明日香から離れた倉橋の柴垣宮に追いやられた大王であった崇峻天皇の御陵や、柴垣宮跡が残っています。
トンボの飛んでいる姿、のどかでいいね。

第32代崇峻天皇の倉梯岡上陵に治定される約15mの小円墳。

崇峻天皇の位牌を祀っていた柴山山「金福寺」の地を倉梯柴垣宮跡とし小字名が「天皇屋敷」だったことから、安政2年(1855)に、祟峻陵に比定。
文久2年(1862)に修陵。
明治22年(1889)に宮内省が陵地に比定。

延喜諸陵式には「陵地ならびに陵戸無し」と記載されている。 
ただし根拠に乏しく、近年では、桜井市倉橋にある巨大方墳、赤坂天王山古墳を崇峻陵とする森浩一の見解が有力視されるようになっている。

同古墳は6世紀末から7世紀初頭に築造された方墳で、東西45.5m、南北42.2m、高さ約9.1m、全長17mの横穴式石室を持つ。

また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説も出されている。

暗殺の経緯

592年10月4日に、猪を献上する者があった。
天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。

そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。
そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。

臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。
死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。

近年、佐藤長門は「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の王族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している。

独り言・・・・

『日本書紀』は公式文書です。
その文書に「国家元首が、配下の者に暗殺された」なんて事を書くのは前代未聞じゃありませんか?
こんなにはっきり実行犯の名前まで記録している事は他にありません。

しかも、事件後に黒幕である馬子が処分を受けた様子もないし、数多の豪族も誰一人として問題にした豪族もいない。
逆に、崇峻天皇は天皇であるにもかかわらず、その日のうちに埋葬されています。

当時は、位の高い人が亡くなった時は殯(もがり)と言って、2~3年間は鎮魂の儀式をするのが慣わしでしたが、そんなものは一切無く、一般人扱いで葬られてしまっています。
こんな不思議なことはあり得ないことなのです。
時の権力者による歴史の改竄を感じます。
この事件には多くの疑問を呈した解説がありますがそのうちの一つ関裕二の「教科書に載らない古代史」の一節を紹介する。

ヤマト建国を左右したのは、日本海(出雲・蘇我氏)、瀬戸内海(吉備きび・物部氏)、東海・東国(尾張氏)であった。
勝者は瀬戸内海であり、日本海と東海は、敗者の側にまわった。
ところが六世紀、彼等は復活したのだ。

七世紀、藤原氏の祖の中臣鎌足は、継体天皇を後押ししていた勢力をなぎ倒し、藤原氏繁栄の足がかりをつくった。

このため、八世紀の藤原氏の政権は、蘇我氏から権力を奪い取った正当性を証明するために、歴史を改竄する必要に迫られ、物部氏と蘇我氏の皇位継承を巡る争いを、都合の良いように脚色したのだろう。

もうひとつは、この「脚色」の延長線上にある。
すなわち、崇峻天皇弑逆事件をでっち上げるためではなかったか。

崇峻天皇弑逆事件と言えば、蘇我氏の悪行の最たるものとして知られる。
現役の天皇を殺めてしまったのだから、弁解のしようがないのである。

しかし、『日本書紀』の記事を読み進める内に、奇妙なことに気付かされる。
それは、穴穂部皇子の運命と崇峻天皇が、重なって見えることである。

崇峻天皇は蘇我氏全盛期に皇位に就いたのに、なぜか蘇我氏と反りが合わなかった。
驚くべきことに、崇峻天皇は穴穂部皇子の弟なのだ。

父は欽明天皇、母は蘇我系という「設定」になっている。
ただし、「穴穂部」の名は、物部氏と縁のあるものだった。
とすると、この兄弟、本当は物部腹だったのではあるまいか。

つまり、物部氏と蘇我氏の主導権争いで穴穂部皇子が犠牲になり、『日本書紀』は蘇我氏の悪行を鮮明に浮かびあがらせるために穴穂部皇子誅殺事件を二度くり返し、蘇我氏による弑逆事件にすり替えたのではあるまいか。

いずれにせよ、六世紀は、瀬戸内海と日本海、そして東海地方三つ巴の因縁の対立に終止符が打たれた時代であり、漁夫の利を得たのは、藤原氏だった。

彼等は八世紀にいたり、歴史改竄の正史『日本書紀』を編纂したのだろう。
「教科書に載らない古代史」関裕二

その他諸説あります。

崇峻天皇の次に天皇となる推古天皇自身がこの暗殺に関与していたからではないか?
蘇我馬子こそが王であった?
よって、謀反人を成敗したところで、馬子が罪を問われる事はありません。
等々挙げればきりがありません。

『日本書紀』を編纂した藤原氏にとって、天皇家は万世一系の一本線でつながっていていただかなければ・・・
その万系一世の天皇家を支え、サポートしたのが中臣鎌足に始まる藤原氏なのですから・・・。

蘇我氏が政権を握っていた間の重要な部分を推古天皇の在位として、歴史を書き換える事によって、天皇家は一本につながります。

推古天皇という初の女性天皇の誕生も、他の女性天皇が中継ぎの役割だったのに対し、推古天皇の在位期間が非常に長い事も、この時代の政権交代を暗示しているような気がします。

あくまで推理ですが・・・

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