幼い少女の額田王が宮廷に入ったのは、おそらく皇極天皇の時代のことだったのではないだろうか。
地方豪族の娘から選ばれて天皇に近侍する采女としてであった、ともいわれる。
皇極天皇は、中大兄皇子が、中臣鎌子ら同志とともに、飛鳥板蓋宮の大極殿で蘇我入鹿をたおしたとき、玉座にあって、冷然と入鹿の断末魔を見下ろしていた男勝りのこの女帝は、女王卑弥呼の系列に属する最後のシャーマンと言える。
額田王がのちに、この女帝の心を歌を通じて広く民に伝える「御言持ち」の役を果たすことになったことから見ても、少女のころの額田王が皇極女帝にひどく愛されたことはたしか。
打てばひびくような少女の才気と可憐な容姿とが、女帝の豪宕(ごうとう)な気質にかえってかなったのではないか。
こうして、女帝の慈しみのもと、宮廷内でのびやかに成長した美少女はやがてここで恋をし、実らせることになる。
結ばれた相手は、皇極女帝の次男、大海皇子。
おそらく額田王が十代半ば、皇子が少し年上のカップルで、これが大海皇子にとっても最初の結婚でした。
そして、二人の間には十市皇女が生まれる。
秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処(みやこ)の仮廬(かりほ)し思ほゆ
額田王 巻1-7
【通釈】秋の野に生える草を刈り、それで屋根を葺(ふ)いてお泊りになった、宇治の仮のお宿。あの宮どころが偲ばれます。
ところで、額田王が、十市皇女という子までもうけた大海皇子のもとから中大兄皇子に奔ったのは、この斉明帝の治世ではなかったか。
そして、それは実の姉の鏡王女の恋を奪う形で遂げたものでした。
667年三月、白村江の敗戦の混乱と、斉明女帝急逝後の政治危機をどうにか乗り切った中大兄皇子は、大和から近江への遷都を断行する。
中大兄皇子は民衆から嫌われていて飛鳥にもどれなかったのと、唐・新羅連合軍が攻めてくるかもという危惧もあった。
その際、額田王がつくった長歌と短歌がある。
味酒(うまさけ)、三輪(みわ)の山、あをによし、奈良の山の、山の際(ま)に、い隠(かく)るまで、道の隈(くま)、い積(つ)もるまでに、つばらにも、見つつ行(ゆ)かむを、しばしばも、見(み)放(さ)けむ山を、心なく、雲の、隠(かく)さふべしや
【通釈】三輪山(みわやま)が奈良の山の端(はし)に隠れるまで、いくつもの道の曲がり角を過ぎるまで、たくさん見続けていたいのに。何度も見たい山なのに、雲が隠したりしていいものでしょうか
反歌:
三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなむ隠さふべしや
額田王 巻1-18
【通釈】三輪山をみられるのも、もうこれが最後だというのに、雲よ、どうしてそんなにいじわるをするの。
飛鳥を離れ、遠い近江まで行かなければならないんです、この辛い寂しい気持ちを、せめてお前だけでも解って欲しいなあ、雲よ、おまえに思いやりがあるのなら、三輪山を隠さないで、見せておくれ。
そして額田王の心の底には、そんな遷都を実施した中大兄皇子への嫌悪が疼いていたはず。
額田王が大海皇子との仲を復活させたのは、この前後のことことではなかったか。
あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る
額田王 巻1-20
【通釈】今は天智天皇と付き合っているけれど、大海人皇子も私も、実はまだお互いに気があって、彼は袖を振って好きだと伝えてくるわ。
そんなあちこちで袖を振っていたら、警備の人がこれをみて、私たちの秘めた恋がばれてしまうじゃないの。
紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも
大海皇子 巻1-21
【通釈】美しいあなたは私の妻ではなく、もう違う人(天智天皇)の妻である。
別れたあなたのことを未だに憎いと思っていたら、あなたのことを恋しく思うことはないでしょう。
しかし、人妻であるあなたのことを未だに恋しく思うのは、あなたのことを憎んではいないからです。
香久山(かぐやま)は 畝傍(うねび)を愛しと
耳梨しと 相あひあらそひき
神代より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ
うつせみも妻を あらそふらしき
中大兄皇子 巻1-13
【通釈】香具山は畝傍山を取られるのが惜しいと耳梨山と争いあった 神代からこのようであるらしい 昔もそうだったからこそ 今の世の人も妻を取り合って争うのであるらしい
反歌
香具山と 耳成山と 闘ひし時 立ちて見に来し 印南国原
中大兄 巻1-14
【通釈】香具山と耳梨山とが争った時出雲の阿菩大神が立ち上がって見に来たという印南国原だよ
神奈備(かむなび)の伊波瀬(いはせ)の杜(もり)の呼子鳥(よぶこどり)いたくな鳴きそわが恋まさる
鏡王女 巻8-1419
【通釈】神の寄りつく伊波瀬の杜の呼子鳥よそんなに鳴かないでおくれ。私の恋心も募ってしまうよ
妹の額田王とくらべると知名度も低く、万事地味で控えめな印象をうける鏡王女ですが、彼女を取り巻く男性は大物ばかりです。
彼女の最初の恋の相手は、なんと中大兄皇子でした。
どのようにして宮廷に入ったのかは分かりませんが、額田王と同様であったと考えればわかりやすいでしょう。
恋におちた二人が交わした次の2首は、万葉集に数えきれないほど収められている相聞歌のうち、男女の歌が一対になるという本来の相聞歌としては、全巻中で最初に登場するものです。
妹(いも)が家を継(つ)ぎて見ましを大和(やまと)なる大島の嶺(みね)に家もあらましを
中大兄 巻2-91
【通釈】君のいる家を見続けていたいなあ。大和の大島の山に君の家があればいいのに。
秋山の 木の下隠り 行く水の 吾れこそ益さめ 御思ひよりは
鏡王女 巻2-92
【通釈】木の下を隠れて流れる水のように表には見せませんがお逢いしたいという私の思いの方勝っておりますよ殿下が私を思ってくださるよりも
君待つと我(あ)が恋ひ居れば我(わ)が宿の簾(すだれ)動かし秋の風吹く
額田王 巻4-488
【通釈】あなた(天智天皇)が早くおいでにならないかと、恋しくお待ちしていると、我が家の戸口のすだれを動かして秋の風が吹くばかり。(あなたが来られたと思って期待したのに残念な気持ちになりました。)
風をだに恋ふるは羨(と)もし風をだに来(こ)むとし待たば何か嘆(なげ)かむ
鏡王女 巻4-489
【通釈】風が吹くだけでいらっしゃったのかと思うのですね
待ち焦がれるなんてうらやましい
風にさえそう思えるのなら何を嘆くことがありましょう
待つ人がいない私はもっと辛いのに
鏡王女にかかわってくる、もうひとりの大物は、中臣鎌子。
いうまでもなく、中大兄皇子とともに蘇我氏を滅ぼし、二人三脚で改新政治を推し進めた人物であり、死の直前には藤原の姓を与えられて、のちの平安朝の時代に全盛を極めることになる藤原氏の祖となった藤原鎌足です。
その鎌足が、鏡王女に求婚したのです。
斉明帝の時代のことと言いますから、鎌足は実に50歳近く、一方、鏡王女は20歳代でした。
その年齢差をこえて鎌足は鏡王女に魅せられたのだ、と言いたいところですが、実は中大兄皇子が、臣下にして盟友の鎌足に彼女を与えたのだという説も根強い。
事実、当時は皇族が、臣下に対する信頼の証として自分の妻を下賜することがあり、それは臣下にとってこの上ない名誉とされた。
しかし、鎌足が熱心に鏡王女に求婚したのも事実でした。
そして初めて鎌足をゆるした時に鏡王女がつくったのが次の歌、題詞「内大臣(うちのおほまえつきみ)藤原卿(ふじはらのまへつきみ)の鏡王女を娉(よば)ひし時に、鏡王女の内大臣に贈れる歌一首」となっている。
玉くしげ覆(おほ)ふを安(やす)み開けていなば君が名はあれどわが名し惜しも
鏡王女 巻2-93
【通釈】あなたは秘密にしておくのは簡単だと言って夜が明けてから帰って行くけれど、あなたが噂されるのはともかく、私のことが噂されるのは困ります
玉くしげみむろの山のさなかずら寝ずはつひにありかつましじ
鎌足 巻2-94
【通釈】みもろの山のさなかずら。
そのさなかずらのつるを、あなたのところまで。
あなたに巻きつけて、たぐりよせたい。
そうして、あなたを手に入れて、一緒に寝ずにはいられない。
我れはもや、安見児(やすみこ)得たり、皆人(みなひと)の、得かてにすとふ、安見児得たり
鎌足 巻2-95
【通釈】私は安見児(やすみこ)を、私のものにしましたぞ。
誰もが手に入れることができないという安見児(やすみこ)を。
天智帝は大友皇子に皇位を継がせたくて、大友皇子を太政大臣に任じるとともに、その側近を重臣で固めて、大海皇子疎外の挙に出る。
そのため、天智帝没後に、大友皇子と大海皇子の間で皇位継承をめぐる戦いが起きたのは、いわば必然でした。
壬申の乱です。
このとき、大友皇子の妃は、額田王と大海皇子の子の十市皇女、一方、大海皇子の妃は天智帝の娘の鵜野皇女でした。
彼女たちはどう動いたか。
十市皇女も鵜野皇女も、大海皇子につきました。
ことに十市皇女は、大友皇子との間に葛野王という子まで産んでいたにもかかわらず、夫を裏切って、吉野にいる父のもとに近江朝廷側の軍事機密を知らせたといいます。
その際の、鮎の腹を裂き、密書を中に秘めて贈りものに見せかけたという才智に、母の額田王の差し金を感じるのは私ばかりではないでしょう。
戦いは大海皇子の勝利に終わりました。
近江町は滅亡し、大友皇子は追われて自殺した。
大海皇子は飛鳥に凱旋し、即位して天武天皇となる。
額田王も、懐かしい旧都にもどりました。
こののち、額田王は20年ほど生きました。
藤原京で額田王が亡くなった時皇位に就いていたのは持統天皇。
大海皇子の皇后、鵜野皇女でした。
古(いにしへ)に恋ふらむ鳥は雀公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きしわが念(おも)へる如(ごと)
額田王 巻1-112
【通釈】昔を恋しく思って鳴くその鳥は霍公鳥(ホトトギス)でしょう。
たしかに鳴いていることでしょう。私が昔を思って泣いているのと同じように。
この歌は先の弓削皇子(ゆげのみこ)が額田王(ぬかたのおほきみ)に贈った巻1-111の歌に、額田王が返した返歌。
弓削皇子の贈った歌は吉野宮の空を鳴きながら渡り行く不如帰が「昔を懐かしんで鳴いているのか」と天武天皇の在世当時の昔を偲ぶ想いを詠んだ一首でしたが、これに対して額田王は「たしかに鳴いていることでしょう。
私が昔を思って泣いているのと同じように。」と皇子の想いに共感して返します。
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