万葉集と古代史の謎を訪ねて

奈良県

古代史も新しい事実や解釈が出てきて面白くなってきた。
日本書紀などは改竄もあり得るが万葉歌は改竄しようがなく面白い世界だ。

謎を求めて小雨の飛鳥を散策した。

最初に訪れたのは奈良県立万葉文化館、日本最古の歌集『万葉集』をテーマとする。

『万葉集』は、古く5世紀から、8世紀にかけて詠まれた4,500余首を収めたわが国最古の歌集で、日本人の心の古典、言葉の文化遺産。

そのなかでも、奈良を対象に詠まれた歌が最も多く、また、県内各地には『万葉集』ゆかりの歴史的風土・自然景観が多く残されています。

飛鳥歴史公園の駐車場から西を望む。

川原寺跡、飛鳥京跡、甘樫の丘を望む、遠景は葛城、金剛。

石舞台古墳、墳丘は現在失われているが、下部は方形で、20-50センチメートル大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられていた。

墳丘の周りに幅5.9-8.4メートルの空堀がめぐり、幅約7.0メートルの外堤が設けられている。

被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力。

『日本書紀』の推古天皇34年(626年)5五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指している。

封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説もある。

最下層は、629年に築かれた舒明天皇の飛鳥岡本宮の遺構である。
その焼け跡に643年に築かれたのが、皇極天皇の飛鳥板蓋宮だ。

乙巳の変の後即位した孝徳天皇は難波宮に遷都するが、板蓋宮はそのまま残っていた。
孝徳天皇が654年に崩御すると、皇極天皇が重祚(ちょうそ)して斉明天皇となり、以前住んだ板蓋宮をそのまま宮とした。

しかし、その宮も重祚した年の冬に出火で焼けてしまい、板蓋宮の遺構が中間層として残った。
最上層は、斉明天皇が翌656年に新たに営んだ後飛鳥岡本宮。

伝承では、645年の乙巳(いっし)の変で惨殺された蘇我入鹿(そがのいるか)の首がここまで飛んできて、力尽きたと言われている。

定説となりつつある事実をまとめておく(異論は当然あるだろうが・・・・)。

①天武天皇の出自
 日本書紀では天智天皇の同母弟となっているが実際は4歳年上と言われる。
 宝皇女が舒明妃となるときに連れ子がいた。

 父親は高向王、日本書紀にたった1行書かれているのが漢皇子、この人こそ後の天武天皇だ。

 日本書紀の天武の記述はずっと後のこと(白村江の戦いの後辺り)、それまでは尾張で育てられていたと思われる。

②天智天皇の死因
 日本書紀では病気で亡くなったとされているが、暗殺された。
 
 比叡山の僧、皇円の『扶桑略記』に天智天皇崩御に関して、次のような事が書かれている。
 一に云う。(天皇は)馬で山階郷に行かれ、帰って来なかった。永く山林に入って、亡くなった所を知らない。ただ、履いていた沓(くつ)の落ちていた所を山陵とした。

青旗(あをはた)の木幡(こはた)の上をかよふとは目には見れども直(ただ)に逢はぬかも
倭姫皇后

かからむの懐(おもひ)知りせば大御船泊(おほみふねは)てし泊(とま)りに標結(しめゆ)はましを
額田王

意味深な歌が万葉集に残る。

③日本書紀は改竄されている。
 天武天皇が舎人親王に編纂を命じたものだが完成は天武天皇の死後30年以上たっている。
 天武天皇没  686年 
 持統天皇即位 690年
 日本書紀完成 720年

 完成時の権力者は藤原不比等、彼が怪しい。
 天武天皇の時代には藤原氏は遠ざけられていのに、なぜ。

 天武死後から持統即位まで4年の空白、この間に何かあったはず。
 
 改竄では藤原氏の出自が隠されている。
 百済王子「余豊璋(よ・ほうしょう)」が「鎌足」とされる。

④聖徳太子はいなかった(厩戸皇子はいた)
聖人君子の聖徳太子一族を蘇我が滅ぼしたという史実をでっちあげるためにつくられた偶像。
 
 乙巳の変が正当化されている(大化の改新は無かった)
 つくられた一族であるので後には一族すべてが死に絶えたというストーリーになっている。
 17条の憲法は馬子の作ったもの。

⑤泉涌寺(皇室の菩提所)に祀られているのは、天智、光仁、桓武の順になっており天武系(天武、持統、文武、元明、聖武、孝謙、淳仁、称徳)が抜けている。
 泉涌寺に何故かを訊ねた人がいたが「前からそうなってます・・・・・」とのこと。

これらのことを頭において謎解きの散策開始。

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