高野山のメインスポット、奥の院

和歌山県


和歌山県にある真言宗の総本山・高野山。

数多くの歴史上の人物や全国の藩主・大名の墓、珍しい形の墓や供養塔があるのが「奥の院」と呼ばれる場所。
Wikipediaによれば戦国大名の6割以上の墓がここにあるとのこと。

参道が作られたのは平安時代後期から鎌倉時代。
「一の橋」の入口から、空海が今も瞑想を続ける「御廟(ごびょう)」まで続く参道は約1.9km。

参道の両脇には20万もの墓や供養塔が立ち並んでいます。

高野山は聖地である、千数百年にわたりそう信じられてきた。

中でも「一の橋」から「弘法大師の御廟」に向かう参道に沿って杉の木と無数の石塔が林立する「奥の院」は 人間の世界ではない と言われている。

一の橋はその「死者の世界」の結界の入り口にあたる。

僧たちはそこに足を踏み入れる時必ず手を合わせ祈りを捧げる。

司馬遼太郎 文学碑

平成20年(2008年)9月建立。

碑は、香川県産の庵治石(あじいし)を使用。

碑文(横1.6メートル、高さ90センチ)は司馬さんの著作「高野山管見」の冒頭から抜粋。

金剛峯寺は「高野山とご縁のある司馬さんの文学碑建立は念願だった」とおっしゃっておられます。

そして、そこには次のような文章が刻まれています。

高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。

山上はふしぎなほどに平坦である。そこに一個の都市でも展開しているかのように、堂塔、伽藍、子院などが棟をそびえさせ、ひさしを深くし、練塀(ねりべい)をつらねている。枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃(ゆうすい)な場所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。

さらには林間に苔(こけ)むした中世以来の墓地があり、もっとも奥まった場所である奥ノ院に、僧空海がいまも生けるひととして四時(しいじ)、勤仕(ごんじ)されている。
その大道の出発点には、唐代の都城の門もこうであったかと思えるような大門がそびえているのである。

大門のむこうは天である。山なみがひくくたたなずき、四季四時の虚空(そら)がひどく大きい。

大門からそのような虚空を眺めていると、この宗教都市がじつは現実のものではなく、空(くう)に架けた幻影ではないかとさ思えてくる。

まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。   
司馬遼太郎

奥の院は大きく2つのエリアに分けることができます。

1つは入口近くのお墓や慰霊碑がずらりと並ぶ墓地エリア。
もう1つは弘法大師御廟(こうぼうたいしごびょう)を中心にした聖地エリア。

墓地エリアを通って北へ進むと、御廟橋(ごびょうのばし)という橋が現れます。
この橋を超えると聖地エリアに入ります。

御廟の橋がかかる川は「玉川」とよばれる清流で、霊峰・揚柳山から流れています。
かつては禊の場所でした。

流れの上に立てられた卒塔婆は、水難や難産で亡くなった人を供養しています。

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