建仁寺(けんにんじ)は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。
山号を東山(とうざん)と号す。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西。
建仁2年(1202年)、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の援助を得て、元号を寺号として、京都における臨済宗の拠点として建立された。
伽藍は宋の百丈山に擬して造営された。
両足院の毘沙門天は、鞍馬寺毘沙門天の胎内仏でした。
戦国時代 比叡山が織田信長によって焼き討ちにあった際、鞍馬の僧が尊像の安全を危惧し、比喜多養清(室町将軍の茶家、筑前黒田家京都御用達)のところへ、尊像を疎開させたもの。
毘沙門天堂の狛犬は、寅。
この毘沙門天は戦前は祇園の芸妓、舞妓がお参りして自分の願いを成就させていました。
そのころの願いは「いい旦那さんがみつかるように」ということで「祇園の縁結び」としても知られています。
今でもお参りの際には偶然、舞妓さんに出会うこともあります。
三門、望闕楼」(ぼうけつろう)の別称がある。
静岡県浜松市(旧浜名郡雄踏町)の安寧寺から1923年に移築したもので、江戸時代末期の建築。
道元禅師 修行の遺跡
日本の曹洞宗高祖道元禅師(1200~1253)は、建保元年(1213)4月比叡山で出家し、やがて建仁寺御開山栄西禅師(1141~1215)の高弟明全和尚(1184~1225)に建保5年(1217)8月師事して前後9年、その間、栄西禅師の遺風に浴し、師資相承の一偈を伝授され、貞応2年(1223)2月、和尚に随侍して入宋すること5年、慶元府、景徳寺の天童如浄禅師(1163~1228、ほかに異説あり)に就いて参学の大事を究尽し、かの地で客死した明全和尚の舎利を奉持して、安貞元年(1227)7月ごろ帰国し、再び建仁寺に入り、報恩の至誠を捧げ、寛喜3年(1231)山城深草に移居した。
平成10年10月吉日
駒沢女子大学学長 文学博士 東 隆眞 掲示板より
狩りをするサギ。
風神雷神図(国宝)-俵屋宗達筆。
金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神を描く。
たっぷりと取られた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける両神のダイナミックな動きを感じさせる。
印も落款も無いが、俵屋宗達の代表作として名高い。
原本は京都国立博物館に寄託され、常時の公開はされていないが、複製の屏風および陶板は建仁寺で見ることができる。
元々は京都の豪商・打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)が建仁寺派である妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したもので、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈された。
〇△口乃庭。
中央が〇、右手に口、左手に△の図形が表されています。
単純な3つの図形は宇宙の根源的形態を示しているとのこと・・・。
禅宗の四大思想(地水火風)を、地(口)、水(〇)、火(△)で象徴しています。
大書院には開山堂の楼門に収められていた陶製十六羅漢像が展示さてています。
これは清水五条の陶器職人たちが、それぞれ自分の最も得意とする技術で作り上げ建仁寺へ献上したもの。
東山一帯が建仁寺の庇護下にあったことがわかります。
禅宗の開祖、達磨の肖像。
達磨はインドに生まれた僧。
中国に渡り、洛陽郊外の嵩山寺で壁と向い合って座ること10年にして悟りを開いたと伝説があります。
平成14年(2002年)創建800年を記念して天井に小泉淳作により双龍の絵が描かれた。
法堂、仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(はっとう、講堂にあたる)を兼ねる。
明和2年(1765年)の建立。
本尊釈迦如来坐像をアップで。
「竹林七賢図」「花鳥図」「琴棋書画図」「雲竜図」「山水図」は、海北友松一派の筆になる方丈旧障壁画であり、襖絵から掛軸に改装されている。
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建仁寺へのアクセス、行き方歩き方
東山区大和大路四条下ル小松町584
075-561-0190
京阪本線 祇園四条駅 徒歩7分
阪急京都線 河原町駅 徒歩10分