纒向遺跡

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纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)は、3世紀に始まる遺跡で、一帯は前方後円墳発祥の地と推定される。邪馬台国の中心地に比定する意見もあり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳を持つ。

纒向石塚古墳

奈良県桜井市太田字石塚に位置する纒向型前方後円墳丘墓で、規模は全長96メートル、後円部径64メートル、後円部の主丘部の東西59メートル、南北45メートル、前方部の長さ約32メートル、幅約34メートル。

くびれ部の幅15-16メートル。
周濠幅約20メートルである。

後円部は不整形円形で、前方部は三味線の撥状に開いている。

葺石および埴輪は用いられていない。

墳頂部は太平洋戦争末期に削平され、そこに高射砲か対空機銃の砲台の基礎部分の跡が検出された。

その際、埋葬施設の検出や遺物の出土がなかったことから、後円部の埋葬ではないか、あるいは削平のおよばない深淵部に埋葬施設があるものと考えられる。

纒向遺跡の主な古墳

纒向石塚古墳
纒向勝山古墳
纒向矢塚古墳
東田大塚古墳
ホケノ山古墳
箸墓古墳

纒向遺跡の大型建物跡 大和政権の中心施設か

邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡、「女王卑弥呼の宮殿」とも指摘される大型建物跡(3世紀前半)のそばから別の大型建物跡の一部が見つかった。

桜井市教育委員会によると、詳しい年代は特定できなかったが、現場からは3世紀後半から4世紀にかけての土器が多数見つかった。

日本書紀には4世紀の大王(天皇)との説がある垂仁、景行が纒向に宮殿を置いたと記されている。

市教委は「大和政権の中心施設だった可能性もあり、年代特定へ向けた調査を続ける」としている。

見つかったのは、南北に並ぶ柱列で、東西1.2メートル、南北60センチの柱穴3個。柱穴の間隔は4.5メートルと広く、間には床を支えるための束柱跡も2個確認された。

柱穴の間隔や、束柱を持つ構造が2009年に約5メートル西で見つかり、卑弥呼の宮殿ともされる大型建物跡と似ており、同規模の建物だった可能性が高い。

桃の実は古代祭祀においては供物として使われており、1ヶ所で出土したタネ数としては国内最多である。

また2011年(平成23年)には、この遺跡からマダイ、アジ、サバ、コイなど6種類以上の魚の骨やウロコを確認した。

動物もイノシシやシカ、カモの骨など千数百点が見つかったと発表した。
これらは食料ではなく、供物であったと考えられている。

唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、後世の藤原宮に匹敵する巨大な遺跡であり、東北地方の一大軍事拠点であった多賀城跡よりも大規模である。

吉備地方にルーツを持つとされる直線と曲線を組み合わせて文様を施した「弧文円板」と呼ばれる木製品。

纒向遺跡から出土した搬入土器。

メクリ地区の木製仮面(桜井市大字太田)
 
纒向遺跡第149次調査において朱塗りの盾たてや鎌柄などの多数の遺物とともに庄内1式期(3世紀前半)の土坑から出土したもので、長さは約26cm、幅約21.6cm。

アカガシ亜属製の広鍬を転用して作られたもので、口は鍬の柄孔をそのまま利用していますが、両目部分は新たに穿孔しており、高く削り残した鼻には鼻孔の表現も施されている。

また、眉毛は線刻によって表現されている。
木製の仮面としては国内最古のもの。

舟を神霊の乗り物として収穫物を盛り、神に捧げるための祭祀道具ではないかと考えられている。

纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない。

現在確認されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などである。

遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地と考える学者も多い。

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纒向遺跡へのアクセス、行き方歩き方

奈良県桜井市辻

JR桜井線「巻向駅」下車すぐ