冬の特別拝観で宸殿 堂本印象 襖絵 などが公開されているが撮影禁止でお見せできないのが残念です。
入口にあって存在感を示しているのが「冠木門(かぶきもん)」。
門柱に「貫(ぬき)」と呼ばれる木を通した形が特徴的です。
主に屋根を持たない門のことをこの名で呼びます。
智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。
近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。
当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。
当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。
玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。
関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。
さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。
高浜虚子(たかはきょし)が昭和5年4月 智積院を参拝して読んだ歌。
ひらひらと つくもをぬいて 落花かな
長谷川等伯一門の国宝障壁画があり、公開されているが、撮影禁止で紹介できない。
そこで大書院の襖絵をご紹介する。
大書院では桃山時代の当時の金箔障壁画さながらに再現された模写で、この「桜図」「楓図」の襖絵をはじめ、上段の間の「松に立葵図」などが再現されている。
智積院といえば、特に大書院に隣接している「利休好みの庭」が、サツキの名所としてもよく知られていますがあいにく工事中です。
昨年訪れたとも工事中でした、5年くらいはかかるそうだ。
因みにこの庭のモデルは、中国の江西省にある名山「廬山」、池は「長江」とのこと。
建物の前にまるで川のように長く延びる池は軒下にまで水が入り込んでいるような構造になっていて、縁側に腰掛けて眺めていると、まるで自分が水の上に浮いているような感覚も覚えます。
あいにく工事で水が抜かれているが、正面右側より奥は、智積院がまだ祥雲禅寺時代だった時のもので、桃山時代の特色ある刈込みを主体としている。
大玄関正面の使者の間には布袋唐子嬉戯の図(ほていからこきぎのず)がある。
月樵道人の大正元年の作。
漫画風に描かれているのが笑みを誘う。
講堂西側の一文字の手水鉢、この寒さで凍っております。
冬日を浴びて講堂の五色幕藻風になびいて美しい。
長く伸びた幕の影もなんとも言えず風情のあるものになっています。
この寒さにも梅がほころび始めています。
金堂の隣には、明王殿という建物があります。
実はこの建物も元々智積院にあったものではなく、昭和22年にそれまであった本堂(方丈)が焼失してしまい、困っていたところを別のお寺(四条寺町の大雲院)から建物を譲り受け、そっくりそのまま移築したものなのだそうです。
その際は現在講堂(僧侶が経典の講義や説教をする学校のようなところ)が建つ場所にあったそうですが、その後現在の講堂が平成7年に再建された際も、壊されること無くそのまま金堂の隣に建物を移動したとのこと。
聞いているとなんともスケールの大きい話です。
現在、明王殿には智積院のルーツ、根来から持ってきたという不動明王像が祀られています。
金堂で行われる朝のお勤めが終わった後は、僧侶はこちらに移動して、護摩供の祈願を行うそうです。
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智積院へのアクセス、行き方歩き方
住所:京都市東山区東大路通り七条下る東瓦町964番地
電話:075-541-5361
京都市営バス「東山七条」(急行100・202・206・207・208系統)下車、徒歩3分
京阪電気鉄道 七条駅 徒歩7分