山崎は京都への圧力と、防備、外圧を防ぐ両面を持った地で、古来より何度か戦場となっている。
天王山登り口、山崎宗鑑・冷泉庵跡の案内が建つ。
「天下分け目の天王山」の幟が翻る。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変後、中国大返しで中国地方から畿内へ引き返してきた羽柴秀吉、神戸信孝連合軍の侵攻に備えるため、男山城と山崎城に陣取った明智光秀軍であったが、何故か淀古城、勝竜寺城へ一時撤退した。
翌日羽柴軍が山崎城に陣取ったため優勢となり、光秀は逃亡、討死する結果となった。
中国大返しなどと言われますが後世の作り話のようです。
豊臣秀吉の “中国大返し” なのですが、(光秀を裏切った) 細川藤孝 から、6月2日に 本能寺の変が起きることを 事前に秀吉は聞いていました。
なので、妙に素早く 秀吉は畿内まで 戻って来られた訳です。
「秀吉の顛末書」の記載によると、6月7日に 秀吉軍は姫路に着いたことが書かれています。
しかしながら、秀吉の重臣から (藤孝の家老) 松井康之に宛てた手紙によると・・・秀吉軍は ““6日”” に姫路に到着した と 書かれています。
酒解神社、二の鳥居前、目の前が旗立松、左が展望台。
旗立松の展望台からの眺め。
左右に横切るのは名神高速道路。
その中央より少し左側に見える大山崎JCTあたりが、山崎合戦の地と言われる。
展望台にある説明板。
右側に現在の地図と当時の軍配置図。
秀吉は天王山麓の西国街道沿いに軍を展開し、対する光秀はその先の谷の出口あたりに布陣していたようだ。
旗立松はここ、山崎でおこった羽柴秀吉と明智光秀による天王山の戦いの際、秀吉軍が自軍の指揮を高めるため、老松の樹上高くに旗印を掲げました。
いわゆる、秀吉の「千成ひょうたん」の旗印です。
これが秀吉軍の士気を多いに高め光秀軍を打ち破ったとされています。
旗立松は明治中期までは、槁木(こうぼく)の姿をとどめていたが朽ちてしまったそうですが、幾度か植樹をへて今にいたります。
看板には5代目とありますが、現在の松はその6代目だそうです。
若い松であり、まだ背が低いためにどの松か迷います。
かつては旗印が見えたとのことなので、麓からも見えるほど大きな松だったのでしょう。
旗立松には山崎合戦之地の碑が建つ。
陶石板には光秀最後の様子が描かれている。。
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武田勝頼を滅ぼし、上杉謙信が亡くなり、東方からの脅威が弱くなり、天下統一が見えて来た織田信長は、徳川家康が邪魔になり殺そうとします。
天下統一後に、徳川家康が目障りな存在になると信長は直感したのでしょう。
そこで、信長は、家康を暗殺しようとします。
光秀・順慶・忠興には3ヶ月前の武田攻めの帰路に家康領を軍事視察して戻ってきた際に得た知識が大いに役立ちました。
城の位置・規模や渡河のための川の浅瀬などよくつかんでいたのです。
夢の跡
安土築城からわずか3年後信長は本能寺に倒れる。 人間50年 下天のうちをくらぶれ … 続きを読む →
一方、堺で本能寺の変を知った家康が三河に逃げ帰る「神君伊賀越え」と呼ばれるスリリングな逃避行などもともと周到に準備計画されていた秘密の逃走ルートを迅速に移動しただけのものであって家康と行動をともにしていたはずの梅雪がこの時ばかり別行動をして一揆勢に殺されたというのも、話として上手く出来すぎている。
「変」後の家康の行動から見て、結局のところ家康によって殺されたのではないかと思える。
何故、本能寺の変の大功労者で山崎の合戦に敗れて斬首された光秀の家老斎藤利三の遺子 於福(おふく)が家光の乳母として重用されたのか。
「松のさかえ」という文書(江戸城紅葉山文庫)によれば、春日局のことを「家康の愛妾で三代将軍家光の実母」と記されているそうだ。
大阪と京を結んだ水陸の要所 淀城
三代将軍家光の実母は「ふく」であったとする説… 続きを読む →
現在、われわれが知りうる歴史というのは、史料から復元されたものであり、かつ史料からしか復元されえないものです。
現代に生きるわれわれは、織田信長の肉声を聞くことも、関ケ原の戦いを目撃することもできません。
すべては、残された史料をもとに、歴史家たちによって紡ぎ出された「歴史」なのです。
ですから、固定された正しい歴史などというものはどこにも存在しません。
歴史とは、新しい史料と新しい解釈によって、この一秒の間にも書き替えられ、更新されていくべきものなのです。
本書では、「一級史料」を題材に、歴史家がどのように史料を読み、歴史を描き出していくのか探っていきます。
そのうえで、教科書や歴史書の記述を鵜呑みにしない、自分なりの「歴史感覚」の身につけ方を学んでいきます。
日本史の一級史料
著者・山本博文
1957年岡山県生まれ。東京大学文学部卒業。82年、同大学院修了。文学博士。現在、東京大学史料編纂所教授。
光秀の謀反、あの「怨恨説」は本当なのか!?信長は、なぜ、あれほど無防備だった!?家康の奇怪な行動、その裏には何が!?秀吉の「中国大返し」、大成功の不可解!?光秀の子孫が解き明かす「本能寺」の謎、驚愕の真実。
明智光秀の子孫を自称している明智憲三郎の著書3点を紹介します。
「本能寺の変について定説となっているもののほとんどは創作です。そのもととなっているのが事変の4カ月後に秀吉が書かせた『惟任退治記』(惟任・これとう=光秀)。つまり秀吉にとって都合のいい公式発表で、これにより“逆賊・光秀”のイメージは決定づけられたわけです」
まさに勝者による歴史が創造されているわけだ。
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山崎合戦之地へのアクセス、行き方歩き方
京都府乙訓郡大山崎町
JR京都線 (東海道本線) 山崎駅,または阪急京都線大山崎駅.歩いておよそ30分