福岡県八女市の岩戸山歴史資料館の老朽化に伴い、市が2年前から建設を進めていた岩戸山歴史文化交流館が完成した。
郷土の英雄「筑紫君磐井」を称える岩戸山文化交流館。
昨年7月に訪れた時は粗末な展示施設で展示もごちゃごちゃしていて見づらかったが今回は展示も素晴らしい出来栄えだ。
岩戸山古墳(いわとやまこふん)は、福岡県八女市にある前方後円墳。 九州地方北部で … 続きを読む →
展示館の前には筑紫君磐井の像。
館では郷土の英雄「筑紫君磐井」を称える展示類がずすしょに見られる。
筑紫君磐井(筑紫国造磐井)は『古事記』にも記載されている人物です。
この頃の『古事記』の記載は、天皇家の系譜のみの羅列に遷っているのですが、この乱だけ、特記されています。
第二十六代継体天皇の時代です。
『古事記』には継体天皇が新王朝を樹立したなどとの記述、それを匂わせるようなものは一切なく、第十五代応神天皇の五世の孫として皇位を継承したと、淡々と記している一方で、この筑紫の君の磐井だけは登場してくるわけです。
よほどの大事件だったことが分かります。
「天皇に従わない悪者」か、「郷土の英雄」か。どちらにしろ、結果的には勝者と敗者。
敗者の古墳が残り、遺物が1500年の時を経て出土する、という国は、昨今のISISの遺跡破壊を例に引くまでもなく、世界広しと言えども日本ぐらいでしょう。
筑紫君磐井を描いた絵画。
この地方に突如巨大な前方後円墳が築かれました。
それが広川町の「石人山古墳」。
年代から考えて、磐井の祖父の墓ではないかといわれています。
石室に置かれた「家形石棺」とその前に立つ「武装石人」は有名で、どちらも重要文化財です。
磐井の時代に一族の繁栄は絶頂期を迎えます。
財力・軍事力・多くの人を動かす動員力をすべて手にした磐井は、巨大な自分の墓、「岩戸山古墳」を生前に築きました。
6世紀前半だけで見ると、磐井より大きな古墳は、継体天皇の前方後円墳ほかわずか。
磐井の力がわかります。
「磐井の乱」の敗北とその後の生き方
527年にヤマト王権に対抗。
古代史上の大事件「磐井の乱」です。
磐井は反逆者?郷土の英雄か
古事記や日本書紀に磐井は「天皇の命令に従わない悪者」として記されています。
本当にそうなのでしょうか。
ヤマト王権は度重なる朝鮮半島進出のための負担を九州の豪族に強要しつづけました。
乱に加わった「火」の国(現在の熊本県)、「豊」国(現在の大分県)も同じ思いだったのでしょう。
ヤマト王権の勝手な出兵により疲れ荒れ果てていく地元の人々や土地を見て、我慢の限界が来たのでしょうか。
ついに磐井は九州の諸豪族と共にヤマト王権に対し反旗をひるがえします。
自国の荒廃振りを目のあたりにし、磐井は何を成そうとしたのでしょうか。
ヤマト王権から見れば「命令に従わない悪者」に映ったのだと思いますが、八女の地を守り、九州を守ろうとした磐井は、やはり郷土の英雄だ。
ヤマトから物部(もののべ)氏がやってきた。
ヤマト軍の将軍は、物部麁鹿火(あらかひ)でした。
乱の後、物部氏らがこの地域に移り住んできました。
物部ゆかりの地名や神社の名前などが多く残っています。
また、物部たちが住み着いたのはどこも、磐井たち元の権力者を監視できる場所でした。
こうして次第に九州は、ヤマト王権に直接的に支配されていったのです。
磐井敗れし後…「筑紫君一族のその後」
1年半もの長きにわたり、戦い続け疲れ果てた磐井率いる筑紫連合軍。
しかし、ヤマトの軍勢も状況は同じ、皆疲れ切っていました。
528年11月、磐井の軍勢とヤマトの軍勢は御井郡(今の福岡県久留米市)付近で最終決戦を行いました。
しかし、磐井は敗れ、九州の地にヤマト王権の支配が及ぶようになりました。
戦いに敗れた磐井とその一族は、その後どうなったのでしょうか。
かつて磐井は、玄界灘に面した地域「糟屋」(かすや)に支配地を持ち、朝鮮半島南部と直接往来できる拠点として対外交易を行っていました。
「日本書紀」によると、磐井の息子“葛子”は父親の罪に連座する事を恐れ、この地をヤマト王権に差し出した、とあります。
罪を許された“葛子”他の息子たちは、父磐井の遺志を引き継ぎ、筑紫君一族として筑後国一帯を治めていきます。
この“息子たち”が築いた古墳が、現在の乗場古墳・善蔵塚古墳・鶴見山古墳であると考えられています。
九州を、そして八女の地を守ろうとした磐井の遺志は、着実にその息子たちに引き継がれていたのです。
刀を帯び靫を背負う武人 岩戸山古墳出土
靫(ゆぎ)とは、矢を携帯するための筒状の容器。
竹などを編んで毛皮を張ったもの、練り革に漆をかけたものなどがあり、右腰につける。矢羽を傷めたり、篦(の)が狂ったりするのを防ぐ。
石馬 岩戸山古墳出土 | 武装石人頭部 岩戸山古墳出土 |
左 武装石人 鶴見山古墳出土 右 人物埴輪頭部 乗場古墳出土
男根のある裸形の石人(下半部) 岩戸山古墳出土
馬形埴輪 立山山八号墳出土
刀を帯びた石人(腰部~基部) 岩戸山古墳出土
石壷 岩戸山古墳出土
石蓋(いしきぬがさ) 岩戸山古墳出土
蓋(ふた)は、容器の口など何らかを覆うようにしてふさぐものの総称。
壷を持つ女子 立山山13号墳出土
盾形埴輪 今城塚古墳出土
埴輪祭祀場から出土、復元高は122cm、木芯に動物の皮を張った盾を模したものと考えられる。
基部の上方には一頭のオスの鹿がヘラ状の工具で描かれているが、なぜここに鹿が描かれているのかは、まだ明確にわかっていない。
武人埴輪 今城塚古墳出土
埴輪祭祀場から出土した武人の埴輪。
桂甲(けいこう)と呼ばれる朝鮮半島由来の鎧を身に着け、頭部には眉庇付冑(まびさしつきかぶと)を被っている。
腰につけた太刀に手をかけ、いまにも抜刀しようと身構える姿は勇壮な武将である印象を与える。
太刀形埴輪 今城塚古墳出土
埴輪祭祀場から出土した太刀形の埴輪。
復元高は150cm、刀の鞘にあたる部分の下部には小さな盾が表現されており、太刀に盾を立て掛ける状況を模したものと考えられ、太刀と盾がセットになっていたものと思われる。
このような表現方法は、現在のところ石人・石馬類には見られない。
上部には刀の柄が表現されており、勾金(まがりかね)と呼ばれるベルト状の飾りが表現されている。
このタイプの太刀は和風太刀ととよばれ、日本古来の刀と考えられている。
土器類 | 埴輪類 |
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岩戸山文化交流館へのアクセス、行き方歩き方
福岡県八女市吉田1562-1
TEL:0943-24-3200
FAX:0943-24-3210
西鉄久留米駅より八女行きバス「福島高校前」下車。
八女ICから国道442号・国道3号経由で約15分。
広川ICから国道3号経由で約10分。