紅葉2015 本当のフィナーレは建仁寺 潮音庭?!

京の紅葉の最終は建仁寺 潮音庭という説もある。

建仁寺(けんにんじ)は、臨済宗建仁寺派大本山の寺院。
山号を東山(とうざん)と号する。
本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西。

また、豊臣秀吉を祀る高台寺や、「八坂の塔」のある法観寺は建仁寺の末寺である。
寺号は「けんにんじ」と読むが、地元では「けんねんさん」の名で親しまれている。

京都は小さな路地が多く、祇園らしい気の利いたデザインの案内板。

祇園町南側のこの一帯は、かつて花見小路通の南の突き当たりにある建仁寺の寺領でした。

明治4年(1871)太政官布告で上知令(あげちれい。上地令とも表記。)が布告され、境内を除き寺社領が国に没収されることになりました。

これによって建仁寺の敷地はそれまでの半分ほどにまでに狭められてしまいました。

それから3年後の明治7年(1874)になると、祇園甲部お茶屋組合が建仁寺から没収されていた約7万坪余りの土地を買い上げ、花街として開発することにしたのでした。

この時真ん中に南北に通されたのが花見小路通でした。

金澤翔子書の風神雷神
金澤翔子さんは1985年6月、東京都目黒区に誕生。
生まれてすぐダウン症と診断されますが、1990年、5歳の時に書家である母、金澤泰子氏に師事し、書道を始められます。

建仁寺の小書院の襖絵は、染色画家 鳥羽美花さんが作成し昨年11月に奉納したもの。〇△ロの庭に面している方がモノトーンの「凪」。
ベトナムの水辺の風景に着想を得て作成したそうだ。

書院の掛け軸。「□△○」。

禅でいう□は、煩悩にまみれた人の迷い。
△は、その煩悩を断ち切る為修行している人。
○は、修行の後、悟りを開いた心。

中庭の潮音庭は、中央に三尊石その東に座禅となっています。
そして、石廻りには紅葉を配置されています。

この庭の紅葉が京の紅葉のフィナーレだという説がある。

南北の建物と東西の廊下のどの位置から見ても正面としてとらえることができる四面正面中庭になっています。

染色家の鳥羽美花さんが奉納した型染めの襖絵。

桃山時代の画壇の巨匠・海北友松(かいほうゆうしょう)は建仁寺と関係が深く、彼の描いた襖絵「竹林七賢図」・「雲龍図」・「花鳥図」等が文化財として建仁寺に数多く残されています。

白砂に緑苔と巨石を配置された枯山水の禅庭が大雄苑です。
とってもおおらかな雰囲気がある庭になっています。

建仁寺方丈障壁画の中でもひときわ目を引くのが、海北友松による雲龍図。
8面からなる雲龍図は、日本を代表する壁画として国の重要文化財に指定されています。

方丈の扁額は張即之(チョウソクシ 宋の時代)の書体。

張即之は宋時代の地方官(1186~1266)

田村月樵 遺愛の大硯、田村月樵(たむら げっしょう)は、現在の京都府園部の近郊に生れた画家。

幼少より絵筆に親しみ、南画や日本画を描き、明治時代に入ると西洋画も描き、晩年は仏画に没頭しました。

67歳から69歳の時に、建仁寺の方丈の襖絵「唐子遊戯図」や塔頭 霊源院(僧堂)の襖絵「雲龍図」を描きました。

方丈の裏側にあるこの「田村月樵 遺愛の大硯」は、月樵が生前愛用した長さが三尺もある大きな硯で、大海原に臨んで一匹の蛙が腹ばいで前進する様子を月樵自身が刻んだと伝えられるものです。

東陽坊、北野大茶会の際に千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室。

二畳台目下座床の席。構成・意匠ともに薮内家の燕庵に共通する点が多く見られる。
大正年間に現在地に移築された。

蹲踞に散り紅葉が一葉、風情のある風景です。

安国寺恵瓊の首塚。

1600年(慶長5年)の関が原の合戦において、恵瓊の主家であった毛利氏を石田光成らの西軍に味方させ、恵瓊自身も西軍の最高首脳として活躍するも、小早川秀明による東軍への寝返りがあり西軍は敗退してしまいました。

恵瓊は、毛利家西軍加担の罪により、同年10月1日に京都六条河原で斬首されました。享年63歳でした。

茶室の西側には当寺の名物「建仁寺垣」が設けられています、紅葉の赤が映えます。

大雄苑と花頭窓。

方丈(重要文化財)の前庭にある「向唐門」。
寛文年間(1661~73)に造営されたと伝えられる。

造営当初は柿(こけら)葺きであったが、瓦葺きとなっていた重圧による桁折れ、また、経年劣化による木部の腐朽破損等が進んでいたため、木部修理及び屋根を銅板に葺き替えを行った。 (平成21年度)

畳108畳分にも及ぶ壮大な水墨画が、小泉淳作の手による双龍図。
2年の歳月をかけて描いたといわれる大作。

一体は「阿(あ)」。 
一体は「吽(うん)」です。

正面須弥壇には本尊釈迦如来坐像、脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られてます。

国宝 風神雷神図屏風 俵屋宗達筆 江戸時代・17世紀

風神は風の、雷神は雷・雨の神であり、自然を神格化したものです。
古来日本人は自然の脅威を恐れていました。

菅原道真の怨念を宿した雷神は、絵巻などで古くから絵画化され、本図にもその図様が影響を与えていいます。

風神と雷神を組み合わせにした場合は、観音の護法神となります。

蓮華王院三十三間堂や浅草寺雷門の風神雷神には、そのような信仰の二神が祀られています。

天空の広がりをあらわすような金地に、墨と黒変した銀による雲、ユーモラスな表情の二神が描かれています。

この絵には、落款がありませんが、江戸時代初期の京都で活躍した俵屋宗達の作品とされています。

重要文化財 風神雷神図屏風 尾形光琳筆 江戸時代・18世紀

宗達の「風神雷神図屏風」(国宝・建仁寺蔵)を写して光琳が描いた「風神雷神図屏風」(重文・東京国立博物館蔵)。

風神雷神の姿はほぼ同じですが、色や表情、配置が異なります。

宗達作品が伝来した京都・妙光寺は、光琳の弟尾形乾山の鳴滝窯の近くにあり、光琳が宗達作品を直接見て影響を受けたことが想像されます。

琳派の絵師・俵屋宗達(たわらやそうたつ)筆の国宝「風神雷神図屏風(びょうぶ)」を、京都市内の小中学生約170人が12万本ものつまようじの作品にして表現した。

三門、江戸時代末期。

1923(大正12)年、望闕楼(ぼうけつろう)とも呼ばれ、静岡県浜名郡の安寧寺から移建したもの。
御所を望む楼閣ということで、望闕楼と名付けられたそうです。

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建仁寺へのアクセス、行き方歩き方

東山区大和大路四条下ル小松町584
075-561-0190

京阪本線 祇園四条駅 徒歩7分
阪急京都線 河原町駅 徒歩10分
京都市営バス 「東山安井」バス停(80・202・206・207系統)より徒歩5分

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