大規模な土塁や堀切が圧巻 都於郡城

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都於郡城(とのこおりじょう)、築城は1337年(建武4年)伊東祐持による。
別名・浮船城

1335年(建武二年)、足利尊氏より都於郡三百町を賜って日向に下向した伊東本宗家の祐持による築城といわれ、一国人領主にすぎなかったころよりの本拠でもある。

伊東氏は後に日向国の大半を領して、伊東四十八城と呼ばれる48の城を持ったが、都於郡城は佐土原城とともにその本城として栄える。

1577年に伊東氏が島津氏により一時没落すると島津氏の支配下に入った。
1615年(元和元年)江戸幕府の一国一城令により、都於郡城は廃城となった。

本丸跡に高屋山上陵?

本丸跡。

「伊東満所(マンショ)」は、都於郡城主 伊東義祐の外孫として、1570年(元亀元年)ごろ、城内で生まれました。 

1577年(天正5年)12月の豊後落ちの時には、苦難の末、日向山地(西都市 東米良の尾八重など)を踏破したと思われます。
 
満所(マンショ)は、豊後臼杵の大友宗麟のもとに、滞在の後、有馬の神学校に入学しましたが、13歳の折、九州のキリシタン3大名の使節をローマ法王庁へ派遣することになり、その遣欧少年使節4名の正使として1582年(天正10年2月)、長崎港を出帆(しゅっぱん)しました。

一行は、ポルトガル、スペインを経て、ローマでは教皇グレゴリオ13世に謁見(えっけん)しました。 

そして、8年5ヶ月ぶりの1590年(天正18年)7月、長崎に帰ってきましたが、ヨーロッパでは各地で大歓迎をうけました。

ここに、日本人として最初に渡欧した伊東満所(マンショ)を末永く顕彰するため、浄財をもって銅像を建立(こんりゅう)しました。

伊東マンショの像の説明板から

堀が深いといえばいいのか、郭の切岸が高いといえばいいのか。
どちらにせよ、郭と堀底との高低差はかなりあり、大迫力。

ただ、こういう造りために、郭間の行き来はかなり不自由。

この郭がそれぞれ独立しているというのも、群郭式の特徴。

高屋山上陵といえば神代三代の二代目彦火火出見尊の御陵ですが、ここもその伝承地。

本丸には拝所っぽい場所と石塔群があります。

ここは宮内庁治定外の陵墓参考地ですが、思わぬ収穫です。(ちなみに宮内庁治定御陵は鹿児島の高屋山上陵。)

城は高さ100mの丘陵に築かれた本城、周囲に支城(日隠城、東城、泉城、高城、向城)を配し、その間を堀や池を巡らすという中世式城郭の典型的な様式である。

本丸跡。

本丸からは八代海、天草が望まれる。

西ノ城跡(三の丸と同様に斥候(ものみ)の役割を果たす)
落日遠く霧島を望む

二の丸跡
本丸と同等に巨大な郭。
東側には2mを超える土塁も残っています。

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都於郡城へのアクセス、行き方歩き方

宮崎県西都市都於郡町

•JR日豊本線・佐土原駅からバスで27分、「宮崎交通西都営業所(西都バスセンター)」下車、バス乗り換え「都於郡」下車、徒歩10分

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