レトロ感がとてもいい 博物館明治村

1965年(昭和40年)3月18日、名鉄が用地の寄付をはじめ財政面で全面的に援助(基金拠出)し、博物館明治村は犬山市の入鹿池のほとりにオープンした。

今回は正面入り口ではなく北口から入場、SL東京駅f゛移転で切符を購入し入場する。

初代「村長」は徳川夢声。
2代目村長は森繁久彌が継ぎ、2004年(平成16年)3月、小沢昭一が3代目村長( – 2012年12月)に就任した。

3代目村長が退任してからしばらく空席が続いたが、2015年(平成27年)3月15日に、4代目村長として阿川佐和子が就任。

日本における鉄道の幕開けは、明治5(1872)年9月12日(新暦の10月14日)。(仮営業開始は、4ヶ月前の5月7日)

この12号機関車は、その鉄道開業から遅れること2年、明治7(1874)年に英吉利(イギリス)、シャープ・スチュワート社により製造され、増備車両として輸入された2台のうちの1台。

紛れもなく、鉄道開業まもない「横濱-新橋」間の運行に配備された蒸気機関車なのだ。

この機関車、ポンポンと前に突き出たふたつの緩衝器が、まるで「機関車トーマス」みたいで、可愛らしく親しみ深いが、決して遊園地向けの模造品ではない。

動態保存としては、まことに由緒正しき日本最古の蒸気機関車なのだ。

明治初期、文明開化真っ只中の頃、日本鉄道の黎明期にデビューした陸蒸気(おかじょうき)そのものだ。

「ごちそうさん」では卯野め以子が東京から大阪に出発する際に乗車した蒸気機関車だ。

「花子とアン」では安東はなと葉山蓮子が「腹心の友」の誓を交わした。

徒歩の場合、地下通路を通って入村する。

何の説明もないが1874年製のボイラー、動態運転開始当時はこのボイラーを使っていたが後に新製ボイラーに乗せかえられた。

帝国ホテル中央玄関、フランク・ロイド・ライトの代表的作品(関東大震災と同年の1923年竣工)として知られ、同ホテルの建て替え構想が発表されると、日・米両国で保存を求める声が高まっていた。

記者会見でコメントを求められた佐藤栄作首相により、明治村に再建する案が提示された。

1967年にホテルは取り壊され、1976年から十数年の歳月をかけて移築工事が行われ、1985年に再建された。
玄関部分だけとはいえ、明治村最大の建物である。

「花子とアン」では葉山蓮子と嘉納伝助がお見合いをしたホテルだ。

名古屋電気鉄道により明治31年(1898)日本で2番目の市内電車が名古屋市内に走るが、同社はその後も尾張地区に路線を伸ばし、大正元年(1912)には犬山線を開通させた。

その時、この岩倉変電所が建てられた。

移築に当たり、構造躯体を鉄筋コンクリートに改め、外装にはレンガタイルを張った。

園内はとてつもなく広い、日本のテーマパークで第3位の敷地面積を誇る。

川崎銀行本店、隅田川新大橋などが見えている。

皇居正門の「石橋」は皇居前広場から皇居に通じる橋である。
江戸時代からこの場所には「西の丸大手橋」と呼ばれる木橋が架けられていた。

明治宮殿造営に際して二重橋の鉄橋も木橋から架け替えられたが、この「石橋」も木橋に替わり架けられた。 

橋の両側に高さ114cmの石の手すりがありその間に高さ174cmの男柱が片側3本ずつ計6本ある。
それぞれの男柱石の上に青銅鋳造飾電燈計6基が設置された。

電燈ははじめガス燈にする予定であったが、ドイツ人技術者オーベンにより電燈の照明度と安全性が上申され、電燈を採用することとなり東京電燈会社によって建設された。

長年使われてきた6基の飾電燈は、昭和61年9月、鋳型を取って新しく鋳造されたものと交換され、取り外されたもののうち1基が明治村に払い下げられた。

この建物は明治44年、皇居大手門内に新築された内閣文庫庁舎のうちの本館・事務棟。

本格的なルネッサンス様式のデザインで、明治のレンガ・石造建築の教科書的作品である。

特に正面中央には高さ7m余の4本の円柱と2本の隅角柱が並び、巨大なぺディメントを受け、その姿は古代ギリシャ・ローマの新殿建築を思わせる。

川崎銀行本店は、ルネッサンス様式を基調としており、当時の銀行・会社の本店建築の中でも本格的銀行建築である。

構造は鉄筋コンクリート(一部鉄骨)造、外壁は御影石積で地上3階、地下1階建、間口約38メートル、高さ約20メートルの建築であった。

川崎銀行は、江戸時代、水戸藩の勘定方をつとめた川崎八右衛門翁が明治13年に設立した銀行で、明治中頃には有力銀行の一つに数えられた。

その後昭和2年川崎第百銀行、昭和11年第百銀行と改称ののち昭和18年三菱銀行と合併した。

川崎銀行本店は展望タワーとなっている。
内閣文庫庁舎を望む。

竣工後間もなく、橋を渡って市電が開通し、橋の役目は一層高まるが、大正12年の関東大震災の折には、他の鉄橋が落ちる中で、この新大橋だけが残り、避難の道として多数の人命を救った。

東京の中心地、日本橋のシンボルとして永く人々に親しまれてきたこの建物は、昭和61年ビル立て替えのため惜しくも取り壊され、正面左側角の外壁部分が明治村へ移築された。

明治村小那沙美島燈台(めいじむらこなさみじまとうだい)

この燈台は、広島県佐伯郡沖見町の小那沙美島にあって、広島湾と瀬戸内海を結ぶ航路を照らしていた。

着工は明治36年(1903)12月、初点は翌年3月1日と記録されており、明治37年(1904)2月6日に開戦となった日露戦争に際して急遽設置されたもので、海抜30mほどの島の頂上に積上げられたプレファブ式燈台である。

園内は紅葉が進んでおり快適な散策が楽しめる。
遠くに金沢監獄中央看守所の屋根が見える。

古来日本では裁判所を行政官庁から独立させる思想はなく、むしろ行政官庁が同時に裁判所でもあることが原則となっていたが、明治元年(1868)の政体書の中で、太政官の権力を立法・行政・司法の三権に分離し、司法権を掌る刑法官を設けたのを端緒として、司法権の独立へと向かうことになった。

明治4年(1871)司法省が置かれ、同8年最上級審として大審院が、翌9年には各地に4つの上等裁判所と23の地方裁判所が創設された。

そののち幾度かの改編を重ねて整備が進み、明治23年(1890)の裁判所構成法により司法制度はその確立をみた。

制度の改良と時を同じくして法律も整備され、明治15年にはフランス法系の治罪法が定められ、同23年には治罪法を改正して刑事訴訟法が制定された。

このような司法制度確立期の明治19年に宮津裁判所は建てられ、この法廷はその一部である。

入鹿池が見え隠れする散策路。

金沢監獄中央看守所・監房(登録有形文化財) 旧所在地、石川県金沢市。明治40年建設。

八角形の看守所を中心に、5つの監房棟が放射状に並ぶ洋式の配置となっています。

看守所の上部には、見張り櫓があり、監獄全域の状況を把握できるようになっています。
 
(注)明治村には監房の要であった中央看守所と、独居房として使用された監房の一部が移築されている。

こちらは書信室。

「室」と言っても、カウンターと、他の在監者に見られないための仕切りがあるだけ。

案内板によりますと、発信する回数やあて先が親族に限られるなど制限が加えられていました。

とのことです。もしかしたら、看守に監視されながら、書いていたのかもしれませんね。

5つの監房棟が放射状に並ぶ洋式の配置となっています。

中央に置かれた看視室からは、各舎房の廊下が一目で見渡せるようになっています。
現在ここに置かれている看視室は、網走監獄で使用されていたもの。

振返って内閣文庫庁舎を見る。

こちらからは川崎銀行本店が望まれる。

聖ザビエル天主堂 、この白亜の教会堂は、近世初頭日本に渡来しキリスト教の伝道に努めた聖フランシスコ・ザビエルを記念して、明治23年(1890)かつてザビエルがいたことのある京都の地に献堂されたカトリックの教会堂で、フランス人神父の監督の下に、本国から取寄せた設計原案に基づき、日本人の手で造られたものである。

天主堂の内部。

宇治山田郵便局舎、明治42年(1909)の建築で、円形ドームの屋根が目印。

明治村簡易郵便局として郵便業務を行っており、ここで手紙を出すと明治村の消印が押される。

手紙を預かり10年後に発送する、「はあとふるレター」300円もある。

「ごちそうさん」ではめ以子たち女学生が銀座のカフェーで、西のほうから来た背の高い男、悠太郎のことを「通天閣」と称して話しをしたのがここ。

明治村工部省品川硝子製造所、明治10年(1877)頃建てられた品川硝子製造所の一部の建物。

明治政府が推進した殖産興業政策の主官庁であった工部省が設立した製造所でした。

平成16年(2004)に国の登録文化財に指定されています。

小泉八雲避暑の家、東京へ移った翌年から、夏を焼津で過ごすようになり、その時身を寄せていたのが、この魚屋、山口乙吉の家。

八雲には「乙吉の達磨」「焼津にて」など焼津を題材とした小説がある。

左は本郷喜之床、この家は東京本郷弓町2丁目17番地にあった新井家経営の理髪店喜之床で、二階二間は石川啄木が函館の友宮崎郁雨に預けていた母かつ、妻節子、長女京子を迎えて明治42年6月16日から東京ではじめて家族生活をした新居。

啄木はそこで文学生活をしながら京橋滝山町の東京朝日新聞社校正部に勤めていた。

菊の世酒蔵へ向かう坂道は紅葉と散り紅葉のきれいな散策路です。

菊の世酒蔵、この建物は、西洋館の多い明治村の中では珍しく和風瓦葺の蔵であって、梁間九間(約16m)桁行十八間(約33m)、外壁に厚い土壁を塗り廻した二階建部分と、幅二間(約3.6m)の吹き放ちの庇部分からなる。

明治28年(1895)愛知県の刈谷にあった菊廣瀬酒造の仕込み蔵として建てられたが、もとは明治の初め刈谷から程遠くない三河湾近くの新川(碧南市)に穀物蔵として造られたものを移したという。

洋式の放射型監獄舎房の規範を示す「監獄則並図式」により金沢監獄が造られたのは明治40年(1907)のこと。

敷地は煉瓦造の高い塀で囲まれ、西側に開けられたのがこの門であった。
 
煉瓦と石で造られた重厚感のあるデザインで、監獄の門という特殊な用途のため、外側と内側の装飾の差が著しい。
外は凸凹が多く、内は足掛かりとなり装飾は一切ない。登録有形文化財。

旧所在地:石川県金沢市小立野。

博物館明治村内を案内しながら走行する村営バスは、1日乗り降りが自由なので効率良く見学ができる。

今日の昼食は明治の洋食屋オムライス&グリル 浪漫亭、明治のレシピをもとに現代風にアレンジしたというカレーライスをいただいたが、ま、どこにでもある普通のカレーだ。

「監獄則並図式」(1872)に沿って、前橋監獄でも十字放射型配置の舎房が造られた。

しかし、構造は和洋折衷の面白いもので、洋小屋に越屋根を載せているが、房廻りの構造は江戸時代以来の日本の牢屋の形式をそのまま伝えている。

太く堅い栗材を密に建て並べ、貫を通して鳥籠状に囲い、床や天井も堅固に組まれている。

飲食から排便に至るまで同じ狭い房内で行われるため、とかく不衛生になりがちな監獄であるが、ここでは房廻り、廊下とも全て吹きさらしになっているため、風通しが大変良く、その面での心配は少ない。

移築に当たり、左右合わせて21房あったものを切り縮め、9房と洗い場を復原している。

素通しの房廻りとは言え、入口の周囲には板がはめ込まれ、中からは錠に手が届かないようになっている。
その反面、扉には小さな窓が開けられ、扉の背後に隠れることを防ぐための配慮もなされている。

中に入ることができ、監獄の体験ができるが、強いて入りたくもない。

傍らの階段そばのモミジは赤く染まり秋本番を思わせる。

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博物館明治村へのアクセス、行き方歩き方

愛知県犬山市字内山1番地
TEL:0568-67-0314

名鉄犬山線犬山駅東口2番乗り場から岐阜バスコミュニティ 約20分、片道420円。

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