海に囲まれた天然の要害 臼杵城

丹生島は北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟の陸地でつながるのみという天然の要害をなしていた。

ちなみに丹生島の「丹生」とは「金属鉱石の産出する島」という意味である。
義鎮(宗麟)は、この島一つを城郭化して干潟を干拓して城下を形成した。

垂直に切り立った崖の上に聳える畳櫓(現存櫓)。

古橋口(大手門側)から見た臼杵城跡左より大門櫓(中央・復元櫓)、畳櫓(右端・現存櫓)。

拡大して見ていただくとわかるが、崖穴に石垣。
崖のあちこちに穴があり石垣が埋め込まれています。

この穴が築城以前からあったものか、石垣はいつ埋め込まれたのか、不思議な穴です。

防空壕の後とも言うし、城の入り口である大手門に集中していることから、宗麟が鉄砲隊を潜ませるために掘ったものだとも言われ真相は定かでない。

鐙坂(あぶみざか)、古橋口から二之丸へと続く折れ曲がった登城道を大門櫓へ向かう。

切り通しを本丸から眺める、見事な曲線だ。

平成13年に復元された大門(だいもん)櫓。

本丸。

天守台。

宗麟候レリーフ。

宗麟は海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国の北九州東部を平定した。

当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。

最盛期には九州六ヶ国に版図を拡げた。
しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。

天正4年(1576年)ポルトガル人より宗麟候に佛狼機(フランキ)砲が贈られたが、これが日本初の大砲と云われている。

宗麟候は、これを「国崩」と命名し、臼杵城の備砲として備えつけた。

1586年(天正14年)の島津軍の侵攻(丹生島城の戦い)に対して「国崩し」と呼ばれたポルトガルから入手の大砲、「フランキ砲」を動員するなどして島津軍を退けたが、城も城下も大きく損失した。

その翌年、大友義鎮(宗麟)は死去した。

本丸空堀、実に見事。

本丸搦手口、正面の谷間になっているあたりに本丸搦手の卯寅口門があった。
海に通じる門です。

畳櫓(現存櫓)。

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臼杵城へのアクセス、行き方歩き方

臼杵市臼杵丹生島91
0972-63-1111 臼杵市文化財課  

JR日豊本線 臼杵駅から徒歩10分

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