富田林寺内町散策2015

寺内町は1560年(永禄3年)に開発された一向宗(浄土真宗)の宗教自治都市。

今でも戦国時代の町割(都市計画)を留め、江戸時代以降の町家(まちや)約40軒が時代劇セットさながらに昔の姿そのままで残されています。

まず本町公園を訪れる、ここには石上露子、織田作之助の記念碑がある。

過去の富田林の記事、富田林寺内町散策
明治の明星派女流歌人・石上露子を富田林寺内町に訪ねる
富田林 じないまち 雛めぐり

重要文化財・興正寺別院、真宗興正寺派、富田林・寺内町の成立と発展の中心となった寺院。

応永年間(1394-1412年)に毛人谷(えびたに)御坊に草創。
永禄4年(1561年)に京都・興正寺第16世証秀上人が現在地に移建。

背割り水路(城之門筋)、 町家は「町」(東西方向の通り)に面して建ち、今も東西の道路の両側の家によって町会組織がある。

敷地と敷地の背割り(境界)として城之門筋を起点にして、それぞれ東西方向に向けて排水路(下水道)が流れている。

重要文化財・(旧)杉山家住宅、杉山家は富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期の大規模商家の遺構。

明治時代の明星派女流歌人・石上露子(本名 杉山タカ)の生家でもある。
昭和58年(1983年)国の重要文化財に指定され、富田林市が維持・管理している。

明治の明星派女流歌人・石上露子を富田林寺内町に訪ねるに詳しく書いたので参照されたい。

江戸時代は造り酒屋として栄えた。

石上露子のもうひとつのペンネーム「夕千鳥」の名前は、この絵の題材に由来しているとも言われる。

清楚な感じの美人、大正天皇のご成婚の日に、家庭教師の神山薫さん、それに自らの妹と一緒に、都合6人で東京見物に出かけている。

18才の時だ。

その時、投宿したのが、神山薫さんの親戚筋の家で、同じく、そこに遠い親戚にあたる、初恋の人 長田正平さんが日々、通ってきたのだ。

二人は互いに心を惹かれるようになるが、それを告白することはなかった。
(当時、家督相続者どうしの婚姻は難しかった。)正平はその後、カナダに渡り、51歳で亡くなるが、生涯独身であった。

自らの恋歌と名前を着物の裾に織り込み、初恋の人に贈るという、ある意味、悲愴な「愛の告白」が語られる。

石上露子 代表作「小板橋」「明治40年明星12月号掲載」、旧家の家督を継ぐ運命のため、思いこがれた初恋の人に対するかなわぬ思いを詠んだ“小板橋”は絶唱と評され、石上露子の名を不朽のものにした。

ゆきずりのわが小板橋
しらしらと一枝のうばら
いづこより流れか寄りし
君まつと踏みし夕べに
いひしらず沁みて匂ひき
今はとて思いに病みて
君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば
ああ、うばらあともとどめず
小板橋ひとりゆらめ

本杉山家の後継者で歌人の石上露子(杉山タカ)はこの南杉山の敷地に建てた自身の山荘(恵日庵)で詩歌を楽しみ暮らしておりました。

この恵日庵から続くつづら折りの小道を下った辺りには露子の芸術の舞台となった小川や水車がありました。

水車の流れに架けた橋で夕暮れに恋人を待ち続ける心情を詠んだ「小板橋」は「明星」等で発表されその高い芸術性において賞賛されました。(勝間家住宅保存委員会)

河内名所図会(享和元年、1801年)に小板橋のイメージを重ねてみる。


長年消息の知れなかった明星歌人が、ひっそりと河内の旧家に暮らしていた。
しかも、かつての面影をそのまま残して。

発見者の松村緑氏は同じ時代の空気を吸った女性で、「いかにも古風な影像を読者に描かせる石上露子が内実は確乎たる自我に目ざめた近代女性だった」(『石上露子伝』)という確信でもって後世に伝えたことは幸いだった。

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富田林寺内町へのアクセス、行き方歩き方

大阪市内・あべの橋から近鉄・南大阪線で約30分、富田林駅下車。
徒歩約10分

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