よみがえる出島

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出島(でじま)は、1634年江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された人工島。

扇型になっており面積は3969坪(約1.5ヘクタール)。
1641年から1859年まで対オランダ貿易が行われた。

出島全体は大正11年(1922)10月12日、「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されている。

復元された長崎出島の東側入り口。

出島は南側にゆるやかな弧を描く扇形をしており、東側入り口は島の南東端に当たる。

青い建物は明治前期に建造された旧出島神学校で、日本最古のプロテスタント神学校。

かつては島だった出島も、現在は市街地のただ中。

周囲は埋め立てられ、島であった時代の面影はない。
写真は東側入り口の手前から北方向を見ているところ。

道路中央の舗装の色が異なっているところから左が当時の出島のエリアだった

フレンドシップメモリー、ミニ出島横に、日本と海外の橋渡しに尽力した6人の人物を題材とした彫刻がある。

このフレンドシップメモリーは、1970年(昭和45)大阪で開催された日本万国博覧会にポルトガル政府が出品した真鍮鋳物製のモニュメントで、万博終了後にポルトガル政府から長崎県に寄贈され、1973年(昭和48)長崎市に譲渡。後に出島に展示。

6人の人物は、
1.1549年に来日、日本に初めてキリスト教を伝えた、フランシスコ・ザビエル(1506-1552)
2.ヨーロッパの言語で初めて日本報告記録を著した、ジョルジュ・アルヴァレス• 宣教師向けに「日本語文典」3.「日本語小文典」等の日本語の解説書や文法書を著している、ジョアン・ロドリゲス(1561-1634)、
4.日本における布教の歴史を綴った「日本史」を執筆した、ルイス・デ・フロイス(1532-1597)
5.「徳島の盆踊り」「日本精神」など数多くの著書を執筆、日本をポルトガルやブラジルに紹介した文筆家、ヴェンセスラウ・デ・モラエス(1854-1929)
6.長崎で布教活動、また九州全域をまわり布教活動・医療活動を行った、ルイス・デ・アルメイダ(1525-1583)

ミニ出島(模型)、この模型は、1820年頃出島オランダ屋敷を描いた川原慶賀「長崎出島之図」をもとに、縮尺15分の1に縮小し製作。

加美丹別荘、遊女部屋、加美丹居間、通詞部屋、鮫蔵、乙名部屋、砂糖蔵、丁字蔵等の建物、旗竿、板塀、漆喰塀、木柵、洗面場、池なども復元し、周囲に水を張り、往時の「出島」のたたずまいを再現したもの。

1824年、もしくは1825年に描かれた出島の鳥瞰図。扇形をしている。出展ウィキペディア

出島が扇形をしている理由としては、以下のような諸説がある。

長崎に新しく作る島の形について、当時の将軍である徳川家光に伺いを立てたところ、自らの扇を示し、見本にするように言ったという説。
これは、シーボルトの著書である『日本』に書かれている話である。

中島川の河口に土砂が堆積し、弧の形をした砂州がもともとあった。
それを土台として、埋め立てたという説。

海側の岸壁を弧状にすることによって、波浪の影響を少なくするために扇形としたという説。

石造製日時計(複製)、この日時計の実物は、商館長ヘルマン・クリスティアン・カステンス(明和3~4(1766~1767)滞在)によって出島の花園に設置された。
 
この日時計は、日光の影により朝6時から夕方6時まで測ることができる。
真ん中の南北を示す線が12時。

現在では、明石市を通る東経135度が日本の標準子午線とされている。
長崎市は明石市より西にあるため、日時計で時間を計ると、実際より遅れた時間になる。

鉄製大砲、昭和39年(1964)に、浦上川河口付近から引き上げられた大砲。

もとはオランダ船に搭載されていたもので、何らかの事情により海中に残さた。

長崎港と浦上川河口部では、オランダ船の座礁や船の搭載砲を海中に落とした記録などが残っている。

アムステルダムをあらわすAとオランダ東インド会社をあらわすVOCのマークが刻まれている。

1823年7月、島和蘭商館医として渡来したシーボルトは前に渡来した先学の商館医ケンペル(1690 年渡来)、ツュンベリー (1775年渡来) の功績をたたえ、これを記念するため1826年、この碑を出島花畑に建てた。

碑文にはラテン語で「ケンペルよ,ツュンベリーよ、見られよ!ここに君らの植物、年ごとに緑そい、花咲きいでて、植えたる主をしのびつつ愛の花輪をささぐるを、ドクター・フォン・シーボルト」

とシーボルトが先学をたたえた文字が刻まれていますが、その文から彼が日本研究によせた心情を読み取ることができます。

その意味で、この記念碑はシーボルトその人の記念碑ともいうことができ、我が国の文化史上貴重な文化遺産として評価されている。

出島表門には、制札場があって「定」と「禁制」の2つの高札がたてられていた。

「定」というのは、日本人、オランダ人で悪事を企む者(抜荷(ぬけに)・密貿易等)があったら、すぐ告訴せよ、告訴すれば賞金を与えるという趣旨の高札である。

「禁制」としては次のように書かれていた。

禁制  出嶋町
一、傾城之外女入事
一、高野ひじり之外出家山伏入事
一、諸勧進之者並ニ乞食入事
一、出島廻リ傍示木杭之内船乗リ廻ル事 附橋之下船乗通事
一、断ナクシテ阿蘭陀人出島ヨリ外江出ル事
右ノ条々堅可相守モノ也
 卯 十月

つまり遊女以外の女、高野聖のほかの山伏や僧侶、勧進や乞食の出入り、出島の外周に打ってある棒杭の中、橋の下への船の乗り入れ、そして、オランダ人は許可なく出島からの外出が禁じられていたということ。

水門近くの中島川に架かる橋の上から出島を望む。島の北西側から見ている格好だ。出島っぽさをいちばん感じられるロケーションではあるが、その向こうに放送局などのビルが建ち並ぶ光景は、やはりちょっと残念……

居留地時代の復元建築群。

カピタン部屋、商館長のことをカピタン(ポルトガル語のカピタオが語源・商館長)と呼んでいた。

このカピタン部屋は出島を代表する大きな建物で、商館長の住まいであると同時に、商館事務所やお客(主に日本の役人や大名が出島を訪れた際)をもてなす場としての機能をもつ建物です。

カピタン部屋は屋根付きの三角外階段がシンボル!これが他の建物と大きく違う特徴となっている。

出島の最高責任者であるカピタン(商館長)の部屋は、倉庫の2階に住んでいた商館員に比べ、とってもゴージャスです。
 
カピタン部屋の1階では、出島の歴史や生活に関する展示、2階では商館長の生活の様子を復元展示してある。

1階倉庫、出島内の建物の多くは1階が倉庫になっていた。

この土間には天秤と分銅、木炭、砂糖の不良品などが置かれていた。

天秤は、当時の出島で銅、砂糖の計量に使われたもので、オランダの財団法人デルフト大学計量博物館から出島復元のために寄贈されたオランダの伝統的な天秤です。

通常、長崎には毎年2隻のオランダ船が季節風の関係から7 – 8月ごろ来航し、バタヴィア(現在のジャカルタ)を出港し、バンカ海峡、台湾海峡などを経て、女島諸島、さらに野母崎をめざしてやってきた。

その年の11 – 12月に帰路につくまでの約4ヶ月の滞在であった。

船がいる間は多くのオランダ人が滞在していたが、それ以外の期間は商館長(カピタン)、次席商館長(ヘトル)、倉庫長、書記役(1 – 3人)、 商館医、商館長の補助員数人、調理師、大工、召使(黒人)など15人前後の人が住んでいた。

翌年夏にオランダ船が入港するまでの間には、貿易に関する仕事や江戸参府などを行っていた。

安政6年(1859年)、出島のオランダ商館は廃止され、領事館が設置された。

さらに、慶応2年(1866年)には外国人居留地に編入された。

この石標柱は、居留地時代の出島の地番を示したもので、現在、敷地の東側から中央部にかけて、道路沿いを中心に7個所の石標柱が残されています。

出島へのアクセス、行き方歩き方

長崎県長崎市出島町6-1
095-821-7200

長崎電気軌道(路面電車)1系統・2系統 出島電停から徒歩すぐ。

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