大友、龍造寺拮抗の城 久留米城

室町時代後期の永正年間(1504年 – 1521年)にこの地の土豪が篠原城と称した砦程度のものを築いたのが始まりと言われる。

天文年間(1532年 – 1555年)には御井郡司の某が修築したとの記録がある。

この時代は豊後国の大友宗麟(筑後守護でもあった)と肥前国の龍造寺隆信が争っており、この地は双方の勢力が拮抗する場所で度々城主が入れ替わった。

蜜柑丸から東御門跡を見る、右側は月見櫓跡。

月見櫓の高石垣、見事。

角度を変えてもう一度高石垣を見る。

本丸の規模は東西約96.4メートル、南北約156.4メートル。
石垣の高さは約14メートルから15メートル。

本丸は中央に本丸御殿、それを取り囲むように7棟の櫓が上げられ、ほぼすべてが多門櫓で連結されていた。

東御門跡目指して上る。

登り切ったところが本丸御殿跡。

本丸御殿、久留米城の中心となった建物で、内部では歴代藩主が政務を執っていた。

明治7年(1874年)廃城令によって廃城処分となり本丸御殿も解体された。

その後、明治10年(1877年)本丸御殿跡地に篠山神社が建造された。
本丸の中心部に位置しており、現在は篠山神社の神殿・拝殿が置かれている。

月見櫓(つきみやぐら)、城の東隅に置かれていた二重櫓、先ほど見上げた高石垣の上に建っていた。

東御門(月見櫓御門)のすぐ東側の上に位置しており、すぐ南側に蜜柑丸がある。
現在は石垣と石碑だけが残っている。

艮櫓(うしとらやぐら)へ向かう。

艮櫓(うしとらやぐら)城の北東に置かれていた三重櫓。
「丑寅(うしとら)(北東)」の方向に置かれたことから「うしとらやぐら」と呼ばれている。

乾櫓(いぬいやぐら)城の北西に置かれていた三重櫓。
「戌亥(いぬい)(北西)」の方向に置かれたことから「いぬいやぐら」と呼ばれている。

現在は土塁だけが残っており、7つの櫓の中で石垣が現存していない櫓はこの乾櫓だけである。

大井戸(おおいど)、固い岩盤をくり抜いて作られた井戸で本丸御殿の北西側にある。

本丸には他にも2つの井戸が存在したが、現在は1つしか残っていない。
現在は危険防止の為に金網が張られている。

解説を見て初めて分かる。
「芭蕉塚」とあるから、句碑というより墓碑なわけだ。

[俳句]
 まず頼む 椎の木もあり 夏木立         芭蕉
[現代誤訳]
 夏の日差しも夕立も遮ってくれる大きな椎の木もあるなあ、この幻住庵の木立には。

てっきりこの久留米城で松尾芭蕉が詠んだ句だとばかり思っていたが、芭蕉は九州に来たことはない。
にもかかわらず、九州にはこの芭蕉塚がたくさんある。謎の句碑である。

ネットで調べたところ、謎が解けた。

芭蕉は、『奥の細道』の旅の後、今度は九州へ下る途中で、大阪で客死した。
師の遺志を継ぐために、芭蕉の高弟たちが次々に九州を訪れたということだ。

芭蕉を尊敬する俳人たちは、彼を弔うため、各地に塚を建立し供養したらしい。
だから、芭蕉の句碑は「塚」と呼ばれるのだ。
福岡県下には何と68基もあるらしい。

明治10年(1877年)本丸御殿跡地に建造された篠山神社。

二つしか見つかっていないもう一方の井戸、御台所(南西)に位置する場所にある。

この城の南隅にあたる位置にあったのが太鼓櫓(たいこやぐら)。
冠木御門の左手に位置し三層建てとなっている。

冠木御門(かぶきごもん)、久留米城本丸の正門(南側)の役割を果たしていた門。

虎口は桝形の形をしており、土橋を渡って南正面に置かれていた。
現在は石垣が現存しており、周囲には水堀が張っている。

久留米城へのアクセス、行き方歩き方

福岡県久留米市篠山町412

JR鹿児島本線、久留米駅下車、北東に約800m。または、西鉄バス「大学病院前」降車、徒歩2分。

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