黒田官兵衛が築いた中津城

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中津城は黒田孝高(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。
江戸時代の大半は、奥平氏が居城としていた。

三斎池(さんさいいけ) から模擬天守を望む。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦などの功によって黒田長政は筑前52万石となり、如水(官兵衛)とともに中津を去った。

黒田氏の後には、細川忠興が豊前一国と豊後の国東(くにさき)・速見(はやみ)の二郡の領主として入部した。

元和6年(1620年)家督を忠利(忠興の三男)に譲り、忠興は三斎と号し隠居した。

翌7年三斎は中津城に移り、中津城や城下町の整備を、黒田氏の後を引き継いで行った。この時、城内の用水不足を補うために、城内への水道工事を行った。

工事は、山国川(やまくにがわ)の大井出堰(三口)から水道を城内まで引く大工事であった。

その水をたたえたのがこの池であり、鑑賞や防火用水として使用された。
忠興の号”三斎”の名を冠して『三斎池』という。

現在は、中津上水道を引いている。
中津市、中津の郷土史を語る会。~現地案内板から

黒御門跡、かって長福寺のあった黒御門の内部付近は、現在は裁判所になっている。

まず、城の外周から回って見る。

中津城は、九州でも最古の黒田時代の石垣が残っている唯一の城。

未加工の自然石を使用し、石垣建築では最も高度な、安土桃山時代の技法で、穴太衆と呼ばれる石垣造りを得意とする集団によって造られている。

官兵衛が築いた石垣には、当時の最高技術である穴太積みの技法が用いられている。
石は全て花崗岩の自然石。

ノミで削った痕跡が一切なく、石の本来の特徴を活かして積まれており、その典型的はものが本丸南側の石垣。

石の角は直線的にのび、反りがなく、また石垣上端がゆるやかなカーブを描いている。「輪どり」といって、カーブさせることで石垣を崩れにくくする技法である。

津城 のすぐ隣にある 「汐湯」 は、 明治29年ごろ「中津海水湯」として始まった。
文字通り、海水をくみ上げた銭湯。

濠(ほり)は、城の横を流れる山国川を介して瀬戸内海と水門で繋がっており、潮の干満で濠の水量が増減、日本3水城の一つ。(他は高松城、今治城)

本来、黒田時代は自然石の石垣のはずだが・・・・実は、官兵衛は中津城築城の際、川上にある福岡県上毛町の7世紀の遺跡「唐原山城」の石を持ち出し石垣を築いた。

その結果、川沿いから北側にかけて、ほぼ7世紀の山城の石のみを使用した石垣ができあがった。
直方体で、一辺が断面L字にカットされているのが目印。

「早く効果的に」~官兵衛、知恵の見せどころだ。

黒田の石垣を中津川沿いに進み、天守脇に出る。

天守の存在については不明である。
江戸時代の絵図には天守は描かれていない一方、黒田孝高(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、天守の存在をうかがわせる記録もある。

江戸時代後期の「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。

1964(昭和39)年に旧藩主奥平氏の子孫が市民の寄附を受けて復興した模擬天守閣と二重櫓が中津市のシンボルとして親しまれている。

本丸北側には、石垣にу状の目地が通る場所がある。
川沿いの四角く加工された石が黒田の石垣、その上にのる自然石が細川時代の石垣として有名。

よく本などでも見るアングル。
このアングルの天守が一番見栄えがいい。

中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されている。

また、吉富町にある八幡古表神社と薦神社とを結ぶ直線上に位置する。
鬼門である北東には、闇無浜神社がある。

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中津城へのアクセス、行き方歩き方

大分県中津市二ノ丁1273
0979-22-3651 奥平家歴史資料館

JR日豊本線:中津駅下車 → 徒歩約15分

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