売れ出すと東京へ移る作家が多い中、司馬遼太郎は河内に住み続けた。
彼が愛した、小坂、八戸ノ里界隈を散策した。
近鉄河内小阪駅前広場にある、鳩をもつ女性像、「平和を祈る乙女」。
昭和20年8月6日、広島に原爆が落ちたちょうどその日に河内小阪駅前の南側も空襲を受けていた。
全焼141戸・半焼32戸・罹災者656人、心の中に平和を守る砦を築くシンボルとして鳩をもつ女性像が建てられたという。
「平和を祈る乙女」の説明板。
ハウス食品グループから寄贈された、洋画家石阪春生さんの絵画「女のいる風景」をもとに、イタリアで教会の装飾などを手掛けるタイル職人らに依頼し、モザイクガラス約70万個を使った大きな壁画を制作。
昭和52年12月から近鉄河内小阪駅前の天正第3ビルの壁面に掲示されている。
モザイクガラスの色数は1.200色、光線、見る角度により絵が微妙に変化するという。
近鉄小阪駅前のアーケード商店街。
ここから司馬遼太郎記念館まで徒歩12分、八戸ノ里駅からだと8分の距離だ。
商店街の中ほど、住宅の中に天守閣がそびえる。
城と名が付くが、理髪店を営む家主が廃材を用いて自力で建てた、自宅と店舗を兼ねた歴史的な背景の無い城郭風建築物。
廃材やトタン板などを利用したすべて手作りの城であり、一番お金がかかったのが天守閣建設に要したトタン板代で、総工費は5万円という。
路面には司馬遼太郎記念館への道案内が埋め込まれる。
河内小阪駅から記念館へ向かう途中にある中小阪公園。
公園入口に「21世紀に生きる君たちへ」の石碑があります。
このメッセージで学んだ子供達はどんな大人に成長していくのだろうか。
田辺聖子さんの母校である大阪樟蔭女子大学小阪キャンパス。
田辺聖子文学館館内には田辺聖子さんの作品や直筆原稿、愛蔵品の数々が展示されているほか、書斎がそのまま再現されたコーナーなどもあり、まさに田辺さんの世界一色の空間となっています。
延命寺、寛文2年(1662年)ごろ、京都石清水八幡宮の祠のそばに一堂を建て、地蔵菩薩を安置したのが始まりといわれ、その後いく度か場所を移し、大正13年(1924年)に現在の地へ移ってきた。
地蔵堂の本尊、地蔵菩薩坐像は、鎌倉時代末~室町時代の作で、府下でも類の少ない高さで4.25mもある。
寺の本尊の木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代中期の作で、高さ1.55m寄木造りで保存度が良く、地蔵堂の本尊と共に昭和50年に大阪府の有形文化財に指定されている。
彌榮神社北側の一段高いところは、中小坂の村落を洪水から守るために築かれた堤の跡。
大坂夏の陣のおり、若江で陣を張っていた豊臣方の武将木村重成が大坂城の救援に向かいここまで来たとき、大坂城が炎に包まれていたため、馬の上に立って大坂城に別れを告げ、再び若江に戻り戦死。
このことからここを馬立と呼ぶようになったと言われています。
310年程前の元禄の頃、下小坂を拓いた人たちが、当時、ムラの近くを流れていた旧大和川(現長瀬川)の水利と水難のため、大和国吉野の水分天神と袖振山の受神をまつり、子守勝手神杜といっていたが、明治5年に現在名に改称した。
彌榮神社(弥栄神社)は旧大和川支流の東岸近くに位置し、もとは牛頭天王と称されていた。
創建年代は不明だが、祭神は須佐之男命。
伝によれば、天正の頃、石山合戦により村落とともに消失したと伝えられている。
その後、慶長5年に片桐且元より社地を拝領し社殿を再建したと宮の記録に記されています。
喫茶美術館、一歩足を踏み入れると、高級な机や椅子、展示品の醸す雰囲気に圧倒される。
司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵を担当した須田刻太画伯の作品と、人間国宝の陶芸家島岡達三の作品が贅沢すぎるほどにならぶ。
床寅、元村営の床屋(村床)だったという。
明治27年創業で、現在の建物は昭和9年のものだとか。
なんとも歴史のある建物、しかも現役というのが素晴らしい。
中小阪集落は環濠集落でした、今も江戸時代に戻ったような雰囲気です。
舟板塀の家屋も残っています。
生前の司馬 太郎が、散歩していてしばしば道に迷ったとのエピソードが残る。
八戸ノ里駅前にある司馬遼太郎行きつけのコーヒー屋、「珈琲工房」。
司馬さんはよくこの席に座ったという。
「珈琲工房」のあるビルの三階に、洋画家でグリコのおもちゃデザイナーとして活躍したZUNZOこと宮本順三(1915~2004)の記念館がある。
作品(絵画・おもちゃ)や生涯にわたり蒐集した日本の郷土玩具・世界の人形玩具・仮面など民族文化資料を展示している。
植田家住宅、暗峠越奈良街道筋に面している旧家。
江戸時代に街道を行く大名が立ち寄ったことを示す本陣札が現在も残っている。
往時の姿をとどめた門が、昔の景観を今に伝えている。
暗越奈良街道は、大坂から暗峠を超えて奈良に至る街道であり、数ある奈良街道、伊勢参宮街道の一つ。
「日本の道百選」にも選定されている。
奈良時代に難波と平城京を最短距離で結ぶ道として設置された。
『五畿内志』では南都道と表記されている。