丹波篠山 河原町妻入商家群


河原町妻入商家群は、篠山市にある篠山市篠山伝統的建造物群保存地区の一画。
建物の間口が狭く奥行きが深いことから「うなぎの寝床」と呼ばれる。切妻造という。

屋根の最長部の棟から地上に向かって二つの屋根が伏せたような山形を作る形が特徴。

画像は河原町妻入商家群の代表的な一軒、川端家住宅。

篠山城築城の際に、城下町の整備がなされ、京への玄関口である河原町が最も早く着手された。

京街道に沿って丹波地区に特有の妻入りの商家が立ち並び、近世から近代にかけての町並みをよく保存している。

丹波古陶館、江戸時代の佇まいを残す妻入の商家が立ち並ぶ河原町(国重要建造物群保存地区)の一角にある。

丹波焼の創成期から江戸時代末期に至る700年間に作られた代表的な品を、年代・形・釉薬・装飾などに分類して展示しています。

また、蔵品中312点は兵庫県指定文化財となっています。

現在では、古民家を利用した新たな店舗も増えつつあり、歴史的な町並みを眺めながらの散策をおすすめ。

当時から代を重ねて住み続けている人も多く、5メートルから8メートルほどの狭い間口と、奥行きが非常に深い妻入りの商家が軒を連ねます。

平入り・妻入りとは。

建物の各面の呼び名として、長辺側、あるいは屋根の棟(むね)(大棟)と平行な面を平(ひら)といい、短辺側、あるいは屋根の棟(大棟)と直角な面を妻(つま)という。

日本の寺社建築・旧街道沿いに残る商家等の町屋建築における「平入り」(平入、ひらいり)や「妻入り」(妻入、つまいり)とは、建物のいずれの面に正面出入口があるかによって分類した様式で、平入りは上述の「平」の側に出入口があるものを指し、「妻」側から出入りするものを妻入りという。

篠山らしいタヌキの置物を店のディスプレイに使っている。

こちらも篠山らしい商品。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

丹波篠山 春日神社


奈良の春日大社の分祠を祭り、地元では「おかすがさん」と呼ばれる氏神。

平安時代初期の876年(貞観18年)当時、日置荘を領有者であった藤原基経、藤原時平父子により藤原氏の氏神である春日大社(奈良県)より分祀し黒岡村南部の当時は笹山と呼ばれた現在は篠山城のある小山に勧請し、祀り氏神としたのが起源とされる。

後の1609年(慶長14年)、篠山城築城の際に現在の地に遷された。

階段上には愛宕社があったが2017年10月に接近した台風21号の強風による倒木で押し潰されてしまった。

能楽殿で演じられる春の春日能と秋の祭礼(10月第3土・日)の京都八坂の祇園祭を模したといわれる4基の神輿、華麗な飾り付けを施された9基の山鉾巡行は京文化を強くうかがわせ、笛や鐘の囃子を響かせながら小京都雰囲気の残るの古い町並みを練り歩く様子は、近代的な町で行われる本場の京都の祇園祭よりも情緒あるものとして知られる。

国重要文化財の能舞台を持つ篠山市黒岡の丹波篠山春日神社で1日0時20分ごろから、全国で最も早い演能として知られる元朝能「翁(おきな)神事」が開かれる。

毎年、初詣で訪れた客らでにぎわう。

秋の祭礼に使われる4柱の神霊を移した金神興は、2基を黒岡村より元禄7年6月に、他の2基は安永8年9月(元禄13年の説もある)篠山町より寄進されたもの。

9台のちんちき山と呼ばれる山鉾は寛文3年以降に各町内より寄進されたもので、京都の祇園の山鉾を模し造られており、絢爛豪華である。

明治後期までは鳳凰・孔雀・蘇鉄・猩猩等の鉾をつけ巡行したが、電線が障害となり現在は鉾を付けずに巡行される。

春日神社祭礼画帖、篠山城大書院に展示のもの。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

丹波篠山 青山歴史村


青山歴史村は、篠山藩主青山家の別邸であった「桂園舎」と呼ばれた建物を中心にして、 3棟の土蔵と長屋門から成っていますがあいにく工事中で中には入れません。

内部には全国的にも珍しい漢学書関係の版木1200余枚、 篠山城石垣修理伺い図面、藩政始末略、印判、ねずみ草子等、江戸時代の歴史文化を物語る史料の数々を展示しています。

また、内庭には石造金櫃、篠山藩士で和算学者「万尾時春」の顕彰碑、「篠山城惜別の碑」などを屋外展示しています。

さらに、篠山藩政文書、青山家ゆかりの品々や篠山藩校「振徳堂」の蔵書なども所蔵し、 歴史村の名にふさわしく、江戸期の政治、文化、生活の実態を体感いただけるところ。

丹波篠山デカンショ館は、青山歴史村内部に隣接して建てられています。

篠山の歴史と文化を歌詞にのせて歌ったデカンショ節をはじめ、 「日本遺産のまち 丹波篠山」の魅力あふれる歴史・文化・自然・特産品等を紹介しています。

デカンショ節はあまりにも有名で皆さんご存じのところ。

市役所の庭にはデカンショ節の像と歌詞の碑が建っています。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

丹波篠山 御徒町武家屋敷群


篠山城跡の西側に、藩主の警備にあたった御徒士衆の家屋が現存している。

土塀に囲まれた静かなたたずまいは、江戸時代末期の雰囲気を十分に残している。

御徒士町の武家住宅は堀端や馬出周辺の武家屋敷と一体となって、篠山城を中核とする城下町の一角を形成し、 すぐれた歴史的景観をみせています。

国の重要伝統的建造物群保存地区としての選定も受けている。美しい日本の歴史的風土100選や、「丹波篠山城下町を訪ねるみち」として美しい日本の歩きたくなるみち500選にも選定されている。

しかし、老朽化は如何ともしがたく何らかの対策が必要かと。

御徒士町武家屋敷群には、安間家史料館という史料館が設けられている。

当時の標準的な従士であった安間家の武家屋敷に全面改修をおこなって史料館にしたもので、茅葺で曲屋形式(母屋に直角に馬小屋が付いたL字形の平面を持つ家屋の一種)の母屋と瓦葺の土蔵が残っている。

内部では安間家に伝来した古文書や食器類、家具、篠山藩ゆかりの武具や史料を展示している。

なお、史料館である旧安間家住宅は篠山市の指定文化財となっている。

御徒士町は1610年に篠山城が築城された際に、城の西側の外堀の堀端道に平行して南北の通りが設けられ、その両側に従士が住んだのが始まりとされている。

江戸時代(1603–1868)後期に一度焼失しているが、1830年に復興、御徒士町武家屋敷群は今でもその時代に建てられた10数戸の武家屋敷が現存している。

現存している武家屋敷住宅の特徴は、まず間口が平均8間(約16m)で商家に比べて間口が広いことが挙げられる。

また、「右ずまい」という、ドアが左側で部屋が右側になっている屋敷が多い。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

丹波篠山 小林家長屋門


案内板によると「 茅葺入母屋造りで文化年間(1805年)頃、篠山藩主青山忠祐(ただやす)が老女小林千衛のために改築した長屋門である。

城の西堀に面して風光と展望し得る物見の間に、見晴らし窓を設け南に曲り家を取りつけた住宅兼用の独特な長屋門形式が創建当初の姿を残しています。 

木造間口17.3メートル 奥行3.6メートル 」とあります。
小林家長屋門は江戸時代後期に建てられた篠山市内に残る数少ない武家長屋建築の1つとして貴重なことから兵庫県指定文化財に指定されています。

内部は非関連記事公開。


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

篠山城址


二の丸登り口は、三の丸から二の丸の御殿跡に至る最も重要な動線で、絵図によると延長100mの範囲に北廊下門、表門、中之門、鉄門が配置され、篠山城内の動線の中でも特に厳重に造られていたことが分かります。

東枡形、大書院の北正面の位置にある枡形で、東西11m、南北16mの広場となっています。
調査の結果、動線の敷石と中之門に続く階段跡が発見されました。

鉄門跡、二の丸へ至る最後の門跡で呼び名の通り門扉には鉄板が張られていたと考えられます。

調査の結果、門跡は廃城後の明治時代にやく1.5m埋められていましたが、埋土を取り除いたところで、門跡の敷石と階段跡などの遺構が江戸時代の姿で発見されました。

これによって鉄門は幅約5m、奥行約4.5mの広さがあり、東側の石垣高さ約4m、西側の石垣高さ4.5mとの間に造られており、二の丸へ至る最後の関門にふさわしい、厳重な造りになっていた様子が確認されました。

水筋にあたる城の北、約2キロの田の中に、玉水と称するどんな旱年にも干したことのない水溜まりがありますが、これは城中の水量観測のために掘られたものといわれ、今も老松の陰にふしぎに涸れることなく、城の水の安全を保証しています。


葡萄の間の草花小禽図屏風。江戸時代後期の狩野惟信の作品で、藩主の青山家に伝えられていたもの。

大書院構造模型。大書院を復元するのに先立ち製作されたもので、建物の1/3の範囲が模型化されている。

大書院のような大規模建築は設計図だけでは構造把握が難しいことから、このような模型を作った。
宮大工二人が4か月かけて製作された非常に手のかかったもの。

二の丸は、大書院、小書院(こしょいん)、中奥御殿(なかおくごてん)、奥御殿(おくごてん)、台所(だいどころ)などの建物と築山(つきやま)をもつ庭園があり、儀式、執務を行う場と城主の生活空間の場で篠山城で最も重要な場所であった。
 
これらの御殿群の周囲には三層の櫓1棟、二層の隅櫓5棟とそれをつなぐように多聞櫓(たもんやぐら)と門が配置されていた。
 
現在残っている二の丸御殿間取図(にのまるごてんまどりず)や発掘調査の結果から御殿は、江戸時代に何度か建て替えられたり、増築されたりしていたようである。
 
しかし大書院を除く建物は廃藩後には取り壊され、唯一残っていた大書院も昭和19年に焼失し、城郭の建物はすべて無くなってしまっていた。

明治時代に入った1871(明治4)年に篠山城は廃城となりますが、藩主・青山家の旧恩を追慕する人々が青山家の御霊を祀る神社の創建を熱望。

青山家の遠祖・青山忠俊公を御祭神として1882(明治15)年5月に創建されたのが、ここ青山神社です。

篠山城の本丸の場所は築城当初と変わっています。

当初は現在の二の丸が本丸でした。
天守台が造られたことにともなって、ここが本丸になりました。

この埋門、非常時(敵が攻め入った時など)には、土砂などで埋めて塞ぎ、侵入を防ぐことを目的として造られた門です。

埋門を抜け、南内堀沿いを歩いて見学できるルートが整備されているがなぜか今は通行不可となっている。

説明板にもあるとおり、外堀は現存だが内堀について言及されていないのは、内堀は戦後に一度公園化に伴い埋め立てられた(その後 史跡として復元された)経緯があるため。

高石垣で囲まれた本丸と二の丸のすべてに犬走が設置され、その外側には三の丸と水堀が広がっています。

今は駐車場になっている三の丸から内堀と石垣を眺めながら散策。

右奥が埋門、従来はここから南内堀沿いを歩いて見学できるルートが整備されていたが今回、残念ながら通行不可になっていた。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

篠山城址外堀


篠山盆地の中央部、笹山とよばれる小丘陵に築かれた平山城で、篠山藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。

朝の光の中で先ずきれいな外堀からせめる。

大書院も見えている。
遠景には霧も見える。

ドラマでは歌手の石川さゆりさんがお牧を演じるが、果たして丹波篠山で、はりつけにされるのか。

多くの大河ドラマで時代考証を担当した静岡大学の小和田哲男名誉教授は「光秀が母を人質に出したという伝承は、江戸期に始まった可能性が高い」とみている。

本能寺の変の真相は「怨恨(えんこん)説」「天下取りの野望説」「信長の非道阻止説」「黒幕説」など、さまざまな研究があるが、お牧が絡む怨恨説は「近年あまり取られない」と話す。

明智光秀の生まれた年や出生地がはっきりしないように、お牧の生涯についても確かな記録は残っていない。

1996年の大河ドラマ「秀吉」で女優の野際陽子さん演じる母が木にはりつけられ、やりで突き殺される壮絶なシーンは多くの人の心に残っている。

1609年(慶長14年) – 徳川家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。

これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされる。

篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、藤堂高虎が縄張を担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成した。

外堀沿いには桜が約1000本、植えられているので、春には多くの花見客でにぎわう。

南馬出、東馬出のように過度な整備は行われておらず、自然のまま最低限の整備(草刈り)が行われているようだ。
馬出の周囲を守る土塁がしっかり残っている。
なお写真はないが、土塁の外側には堀も残っていた。

1873年明治6年) – 城郭の建造物が取り壊され始めた。

二の丸の大書院(おおしょいん)は取り壊しに多くの費用が必要なことや旧藩士の安藤直紀の働きかけで保存されることになり取り壊しから免れた。
城地には役所や学校などが建てられた。

堀に不法投棄される自転車などのゴミや、増える外来種を駆除するために堀の水を抜いて作業するなどして水質を改善する活動が行われている。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

甲山神呪寺八十八ヶ所巡り


武庫山神呪寺は平安時代初めに弘法大師空海が開山したといわれていますがミニ八十八箇所が作られたのは江戸時代の寛政10(1798)年になってから。

信心からでなくても、全行程2.5kmほどの散策コースもおすすめ。

88カ所たった2キロ 200年続く「時短」お遍路。


洞窟状の仏像も。

第60番 大日如来坐像。


西宮市街が見渡せる場所も。

甲山、神呪寺を望む。

1200万年前に噴火したとされる。
岩質は輝石安山岩からなり、隣接した花崗岩(いわゆる御影石)からなる六甲山とは全く形成過程が異なる。

1200万年前の活動期には大きく広がる山体を持っていた。

約200万年間の活動が終息した後、侵食によりわずかに火口付近の火道周囲のみが塊状に残るに至ったことが確認されている。


大岩がごろごろ転がる遍路道。

全行程2.5km、楽しいお遍路。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

甲山大師 神呪寺


神呪寺(かんのうじ、神咒寺)は兵庫県西宮市甲山山麓にある真言宗御室派別格本山の寺院。
通称甲山大師(かぶとやまだいし)と呼ばれる。
新西国三十三箇所第21番札所。

画像は仁王門、江戸時代(1804年)建立、三間一戸八脚門(中央高屋根四脚門)

寺号の「神呪寺」は、「神を呪う」という意味ではなく、甲山を神の山とする信仰があり、この寺を神の寺(かんのじ)としたことによるという。

神呪寺の本尊・如意輪半跏(はんか)像は、河内観心寺、大和室生寺の如意輪観音像と合わせて、日本三如意輪と呼ばれている。
家業繁栄・商売繁盛のご利益があるとされ、秘仏となっている。
融通さん、融通観音とも称されている。

なお、「神呪」(じんしゅ)とは、呪文、マントラ、真言とほぼ同義で、仏の真の言葉という意味がある。開山当時の名称は「摩尼山・神呪寺(しんじゅじ)」であり、「感応寺」という別称もあったようだ。

神呪寺は第53代淳和天皇の第四妃(後の如意尼)が開いたとする。

一方、『帝王編年記』には、淳和天皇皇后の正子内親王が天長4年(827年)に橘氏公、三原春上の二人に命じて真言宗の寺院を造らせたとある。

この「多宝塔」は天長8年(831年)に神呪寺が開創されてから1150年目にあたる昭和55年に国家安泰、十方施主、万徳円満を祈願し、神呪寺の無窮の興隆を念願して建立されたといわれている。

1200万年前に噴火したとされる。岩質は輝石安山岩からなり、隣接した花崗岩(いわゆる御影石)からなる六甲山とは全く形成過程が異なる。

1200万年前の活動期には大きく広がる山体を持っていた。約200万年間の活動が終息した後、侵食によりわずかに火口付近の火道周囲のみが塊状に残るに至ったことが確認されている。

神功皇后が平和を祈願して兜等を埋めたという伝説があり、またその山の形がかぶとに似ているところから、甲山と名付けられたこの山の中腹に、神呪寺がある。
ただ一般には神呪寺というより、甲山大師の名で親しまれている。

天長7年(830年)に空海は本尊として、山頂の巨大な桜の木を妃の体の大きさに刻んで、如意輪観音像を作ったという。

この如意輪観音像を本尊として、天長8年(831年)10月18日に本堂は落慶した。
同日、妃は、空海より剃髪を受けて、僧名を如意尼とした。

如意尼が出家する以前の名前は、真井御前(まないごぜん)と称されていた。

この時、如意尼と一緒に出家した二人の尼、如一と如円は和気清麻呂の孫娘であった。

鎌倉時代初期には、源頼朝が再興する。
境内の近くには源頼朝の墓と伝えられている石塔がある。

境内から西宮市街を望む。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!

旧居留地散策

神戸港開港により外国人の営業を認可する治外法権の居留地が設けられ、イギイス人土木技師J.Wハートにより、126区画の西洋的な区画に整備され、西洋の文化が花咲く国際都市へと発展した。

当時「東洋の居留地として最も美しい街」と称され今でもほぼそのまま残されている

南京町の東の入口に当たる長安門。
旧居留地西端の鯉川通に面している。

当時、条約の未締結国であった清国から神戸に渡ってきた華僑は、居留地には住むことができず、その西側に多く住み着き、南京町といった中華街を築いていった。

旧居留地内の住所は町名+番地の外国スタイル。
町名は江戸町、京町、浪花町など日本の都市にちなんだものが多いのも特徴。

スポーツ用品メーカーの「ナイキ」という社名の名前に由来といわれるニケの像。

ニケは、ギリシャ神話の神でアフロディーテの娘で航海中に糸を紡いだり様々な役立つものを作り出す生産の神と同時に勝利の神の象徴として船の先に航海の危機を乗り切り安全を祈願して女神像として取り付けられていました。

明石町筋と仲町通りが交差する角にあるのは旧居留地38番館。
近代建築の匠、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ事務所による設計の情趣溢れた建物で、訪れる多くの人々を魅了しています。

1894年(明治27年)、明治政府はイギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、領事裁判権の撤廃と外国人居留地の返還を実現した。

政府はその後同じ内容の条約をアメリカ、フランスなど14ヵ国と締結した。

これら一連の条約は1899年(明治32年)7月17日に発効し、同日をもって神戸外国人居留地は日本側に返還された。

神戸旧居留地のランドマークともいえる大丸神戸店。

その大丸神戸店の天井の高い、石の廻廊の下に『CAFFELA(カフェラ)』というオープンカフェがあります。

通りに向かって並んだ籐の椅子。足もとには荷物籠。
しつけのいい接客。
それだけで、もう、外国のようじゃないですか。

冬にはちゃんとひざ掛けも用意されています。もちろん、とっても暖かいストーブもあるので、木枯らしビュービュー吹き荒ぶ日でなければ、快適に過ごせます。

返還された居留地(旧居留地)には大正から昭和初期にかけて日本の商社や銀行が多く進出し、ビジネス街として発展した。

一方、外国商館は第一次世界大戦を境に衰退を見せた。

とりわけ大戦において日本と敵対したドイツ人所有の不動産は強制的に日本人に売却され、旧居留地においても日系商社がドイツ系商社にとって代わった。

1931年(昭和6年)の時点で、外国人が永代借地する旧居留地内の区画は126区画中47区画にまで減少した。

電気供給が開始されるにあたって居留地側は電線が空中を横切るのは美観を損ねると主張し、電線は地下に配線されることになった。

居留地返還後も旧居留地では電線は地下配線され、通りに電柱が建てられることはなかった。

神戸外国人居留地はラムネ発祥の地といわれることがある。

アレキサンダー・キャメロン・シムが経営するシム商会が、1884年(明治17年)頃に「18番」と呼ばれる(シム商会が居留地18番地にあったことに因む)ラムネの製造・販売を始めたが、「日本清涼飲料水工業発達史」には「神戸の A.Cシム商会が日本で最初のラムネだろう」と記されている。

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!