新西宮ヨットハーバー


西日本最大級のヨットハーバーとされる。
行政上は尼崎西宮芦屋港の一部。

海の駅としての登録名はしんにしのみや海の駅。

収容できるヨット数は 700隻と云われている。

ビジターバースでは何やら作業が行われている。

ボードウォーク。
海辺に続くデッキでは、ヨットハーバーに静かに浮かぶヨットを眺めながら、のんびり散歩できます。

向はASHIYA BAYCOURT CLUB – 芦屋ベイコート倶楽部

1971年、西宮港港湾整備工事が着工され、桁下16mの西宮大橋が架けられる見通しとなった。

しかし、当時、西宮マリーナ(西宮市西波止町1-2)を母港とする関西ヨットクラブ会員の大型ヨットが西宮大橋をくぐれなくなるため、兵庫県と西宮市に対し、西宮の埋立地(現在の西宮浜)の沖に新ヨットハーバーを確保するよう誓願した。

西宮浜にある「新西宮ヨットハーバー」のセンターハウス前には、堀江健一さんのマーメイド号が飾ってあります。

これは2004年から2005年にかけて、ケープ・ホーン東回りで単独無寄港世界一周された時のものです。

センターハウス内の西側には関西小型船安全協会事務局が、東側には老舗名門ヨットクラブである関西ヨットクラブがある。

芦屋市在住の海洋冒険家・堀江謙一は、関西ヨットクラブの名誉会員であり、海洋冒険に使用した2艇が展示されている。

新西宮ヨットハーバー建設の契機となった西宮大橋、ランニングする市民の姿も見られます。

堀江謙一は1962年、小型ヨット「マーメイド号」による西宮 – サンフランシスコ間の太平洋単独横断航海に成功、当時出港した西宮マリーナ(西宮市西波止町1-2)。

対岸は芦屋の住宅街。

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安藤忠雄の世界 西宮市貝類館


1999年5月7日に西宮浜に開館したこの施設は、世界各地の貝類、約2,000種、5,000点が展示されている貝類専門のユニークな博物館。

館内には重さ200kgを超えるオオシャコガイからゴマ粒ほどの小さな貝、生きたオウムガイなどが展示され、実際に貝を手にとってふれることも出来る。

展示標本の他に、菊池典男から寄贈された黒田徳米の貝類標本、約3800種4万点も収蔵している。

貝類館の建物は安藤忠雄の設計であり、風をいっぱいに受ける帆をイメージしたデザインとコンクリート打ち放しの外観が特徴的。

館内は海の中を思わせるようなブル-で統一されたユニ-クな貝類専門の博物館。

隣接している西宮浜公民館との間にある中庭には、海洋冒険家である堀江謙一から寄贈された実物の「マーメイド4世号」が展示されている。

「4世号」は全長10・6メートル、総重量4・7トンのアルミ製。

堀江謙一は1962年、小型ヨット「マーメイド号」による西宮 – サンフランシスコ間の太平洋単独横断航海に成功。

水20リットル、米40kg、缶詰200個を積んで出航した。
水は20リットルでは足りず、航海中に甲板に降った雨水を蓄えるなどした。

東側から望む。右のマストはマーメイド号のもの。

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ヨドコウ迎賓館(旧山邑家住宅)


大正期、帝国ホテル建設のため来日していた近代建築の巨匠フランク・ロイド・ライトにより、灘の酒造家・八代目山邑太左衛門氏の別邸として設計された建物。

玄関の車寄せ。

原設計は1918年で、ライトは1922年にアメリカに帰国してしまったため、実際の建築はライトのもとで帝国ホテルライト館の建設にも携わっていた遠藤新と南信が行った。

左右には景観を楽しめる大きな窓が配されています。

北側には大谷石で作られた大きな暖炉があります。

竣工は1924年(大正13年)で、芦屋市街を一望できる高台に建っている。
1947年から淀川製鋼所が所有し、社長邸や独身寮などとして使われた。

芦屋川が海に向かってまっすぐに行く寸前の折れたところの急峻な丘に階段状に建っているため、建築物が密集した現在でも芦屋川を通じて大阪湾が一望できる。

建物全体を眺めながらエントランスに導かれるアプローチ、迷路状の流れるようなプラン、室内外の空間の細かい出入りなどライトのよく使った建築手法が存分に反映されている。

畳部屋の和室が3室続いています。

浮世絵の蒐集家であったライトは、日本の美意識に自然と影響をうけたのかもしれません。

本人は否定しているようですが。

欄間の緑青の飾り銅板は植物の葉がモチーフ。

ドアなど、邸宅の随所に使われています。

敷地は南北に細長く、ゆるやかな南斜面になっており、建物はその山肌に沿って階段状に建てられている。

幾何学的な彫刻を施した大谷石、マホガニーの複雑な木組み装飾や植物の葉をモチーフとした飾り銅板など、特に2階応接室、3階和室、4階食堂などにライト建築の特徴を見ることができる。

4階バルコニー入口。

屋上のバルコニーからは、六甲の山並みや市街地、大阪湾の眺望も楽しめる。

地元の人が名付けたというライト坂。

阪急芦屋川駅から徒歩10分、芦屋川沿いを北へ登ると開森橋、地元の人が名付けたというライト坂が続き、大谷石の重厚な作りを見上げ進むと門が迎える。

マンホールのふた。
市木クロマツと芦屋浜、芦屋川の清流をイメージしデザイン。

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丹波篠山 河原町妻入商家群


河原町妻入商家群は、篠山市にある篠山市篠山伝統的建造物群保存地区の一画。
建物の間口が狭く奥行きが深いことから「うなぎの寝床」と呼ばれる。切妻造という。

屋根の最長部の棟から地上に向かって二つの屋根が伏せたような山形を作る形が特徴。

画像は河原町妻入商家群の代表的な一軒、川端家住宅。

篠山城築城の際に、城下町の整備がなされ、京への玄関口である河原町が最も早く着手された。

京街道に沿って丹波地区に特有の妻入りの商家が立ち並び、近世から近代にかけての町並みをよく保存している。

丹波古陶館、江戸時代の佇まいを残す妻入の商家が立ち並ぶ河原町(国重要建造物群保存地区)の一角にある。

丹波焼の創成期から江戸時代末期に至る700年間に作られた代表的な品を、年代・形・釉薬・装飾などに分類して展示しています。

また、蔵品中312点は兵庫県指定文化財となっています。

現在では、古民家を利用した新たな店舗も増えつつあり、歴史的な町並みを眺めながらの散策をおすすめ。

当時から代を重ねて住み続けている人も多く、5メートルから8メートルほどの狭い間口と、奥行きが非常に深い妻入りの商家が軒を連ねます。

平入り・妻入りとは。

建物の各面の呼び名として、長辺側、あるいは屋根の棟(むね)(大棟)と平行な面を平(ひら)といい、短辺側、あるいは屋根の棟(大棟)と直角な面を妻(つま)という。

日本の寺社建築・旧街道沿いに残る商家等の町屋建築における「平入り」(平入、ひらいり)や「妻入り」(妻入、つまいり)とは、建物のいずれの面に正面出入口があるかによって分類した様式で、平入りは上述の「平」の側に出入口があるものを指し、「妻」側から出入りするものを妻入りという。

篠山らしいタヌキの置物を店のディスプレイに使っている。

こちらも篠山らしい商品。

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丹波篠山 春日神社


奈良の春日大社の分祠を祭り、地元では「おかすがさん」と呼ばれる氏神。

平安時代初期の876年(貞観18年)当時、日置荘を領有者であった藤原基経、藤原時平父子により藤原氏の氏神である春日大社(奈良県)より分祀し黒岡村南部の当時は笹山と呼ばれた現在は篠山城のある小山に勧請し、祀り氏神としたのが起源とされる。

後の1609年(慶長14年)、篠山城築城の際に現在の地に遷された。

階段上には愛宕社があったが2017年10月に接近した台風21号の強風による倒木で押し潰されてしまった。

能楽殿で演じられる春の春日能と秋の祭礼(10月第3土・日)の京都八坂の祇園祭を模したといわれる4基の神輿、華麗な飾り付けを施された9基の山鉾巡行は京文化を強くうかがわせ、笛や鐘の囃子を響かせながら小京都雰囲気の残るの古い町並みを練り歩く様子は、近代的な町で行われる本場の京都の祇園祭よりも情緒あるものとして知られる。

国重要文化財の能舞台を持つ篠山市黒岡の丹波篠山春日神社で1日0時20分ごろから、全国で最も早い演能として知られる元朝能「翁(おきな)神事」が開かれる。

毎年、初詣で訪れた客らでにぎわう。

秋の祭礼に使われる4柱の神霊を移した金神興は、2基を黒岡村より元禄7年6月に、他の2基は安永8年9月(元禄13年の説もある)篠山町より寄進されたもの。

9台のちんちき山と呼ばれる山鉾は寛文3年以降に各町内より寄進されたもので、京都の祇園の山鉾を模し造られており、絢爛豪華である。

明治後期までは鳳凰・孔雀・蘇鉄・猩猩等の鉾をつけ巡行したが、電線が障害となり現在は鉾を付けずに巡行される。

春日神社祭礼画帖、篠山城大書院に展示のもの。

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丹波篠山 青山歴史村


青山歴史村は、篠山藩主青山家の別邸であった「桂園舎」と呼ばれた建物を中心にして、 3棟の土蔵と長屋門から成っていますがあいにく工事中で中には入れません。

内部には全国的にも珍しい漢学書関係の版木1200余枚、 篠山城石垣修理伺い図面、藩政始末略、印判、ねずみ草子等、江戸時代の歴史文化を物語る史料の数々を展示しています。

また、内庭には石造金櫃、篠山藩士で和算学者「万尾時春」の顕彰碑、「篠山城惜別の碑」などを屋外展示しています。

さらに、篠山藩政文書、青山家ゆかりの品々や篠山藩校「振徳堂」の蔵書なども所蔵し、 歴史村の名にふさわしく、江戸期の政治、文化、生活の実態を体感いただけるところ。

丹波篠山デカンショ館は、青山歴史村内部に隣接して建てられています。

篠山の歴史と文化を歌詞にのせて歌ったデカンショ節をはじめ、 「日本遺産のまち 丹波篠山」の魅力あふれる歴史・文化・自然・特産品等を紹介しています。

デカンショ節はあまりにも有名で皆さんご存じのところ。

市役所の庭にはデカンショ節の像と歌詞の碑が建っています。

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丹波篠山 御徒町武家屋敷群


篠山城跡の西側に、藩主の警備にあたった御徒士衆の家屋が現存している。

土塀に囲まれた静かなたたずまいは、江戸時代末期の雰囲気を十分に残している。

御徒士町の武家住宅は堀端や馬出周辺の武家屋敷と一体となって、篠山城を中核とする城下町の一角を形成し、 すぐれた歴史的景観をみせています。

国の重要伝統的建造物群保存地区としての選定も受けている。美しい日本の歴史的風土100選や、「丹波篠山城下町を訪ねるみち」として美しい日本の歩きたくなるみち500選にも選定されている。

しかし、老朽化は如何ともしがたく何らかの対策が必要かと。

御徒士町武家屋敷群には、安間家史料館という史料館が設けられている。

当時の標準的な従士であった安間家の武家屋敷に全面改修をおこなって史料館にしたもので、茅葺で曲屋形式(母屋に直角に馬小屋が付いたL字形の平面を持つ家屋の一種)の母屋と瓦葺の土蔵が残っている。

内部では安間家に伝来した古文書や食器類、家具、篠山藩ゆかりの武具や史料を展示している。

なお、史料館である旧安間家住宅は篠山市の指定文化財となっている。

御徒士町は1610年に篠山城が築城された際に、城の西側の外堀の堀端道に平行して南北の通りが設けられ、その両側に従士が住んだのが始まりとされている。

江戸時代(1603–1868)後期に一度焼失しているが、1830年に復興、御徒士町武家屋敷群は今でもその時代に建てられた10数戸の武家屋敷が現存している。

現存している武家屋敷住宅の特徴は、まず間口が平均8間(約16m)で商家に比べて間口が広いことが挙げられる。

また、「右ずまい」という、ドアが左側で部屋が右側になっている屋敷が多い。

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丹波篠山 小林家長屋門


案内板によると「 茅葺入母屋造りで文化年間(1805年)頃、篠山藩主青山忠祐(ただやす)が老女小林千衛のために改築した長屋門である。

城の西堀に面して風光と展望し得る物見の間に、見晴らし窓を設け南に曲り家を取りつけた住宅兼用の独特な長屋門形式が創建当初の姿を残しています。 

木造間口17.3メートル 奥行3.6メートル 」とあります。
小林家長屋門は江戸時代後期に建てられた篠山市内に残る数少ない武家長屋建築の1つとして貴重なことから兵庫県指定文化財に指定されています。

内部は非関連記事公開。


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篠山城址


二の丸登り口は、三の丸から二の丸の御殿跡に至る最も重要な動線で、絵図によると延長100mの範囲に北廊下門、表門、中之門、鉄門が配置され、篠山城内の動線の中でも特に厳重に造られていたことが分かります。

東枡形、大書院の北正面の位置にある枡形で、東西11m、南北16mの広場となっています。
調査の結果、動線の敷石と中之門に続く階段跡が発見されました。

鉄門跡、二の丸へ至る最後の門跡で呼び名の通り門扉には鉄板が張られていたと考えられます。

調査の結果、門跡は廃城後の明治時代にやく1.5m埋められていましたが、埋土を取り除いたところで、門跡の敷石と階段跡などの遺構が江戸時代の姿で発見されました。

これによって鉄門は幅約5m、奥行約4.5mの広さがあり、東側の石垣高さ約4m、西側の石垣高さ4.5mとの間に造られており、二の丸へ至る最後の関門にふさわしい、厳重な造りになっていた様子が確認されました。

水筋にあたる城の北、約2キロの田の中に、玉水と称するどんな旱年にも干したことのない水溜まりがありますが、これは城中の水量観測のために掘られたものといわれ、今も老松の陰にふしぎに涸れることなく、城の水の安全を保証しています。


葡萄の間の草花小禽図屏風。江戸時代後期の狩野惟信の作品で、藩主の青山家に伝えられていたもの。

大書院構造模型。大書院を復元するのに先立ち製作されたもので、建物の1/3の範囲が模型化されている。

大書院のような大規模建築は設計図だけでは構造把握が難しいことから、このような模型を作った。
宮大工二人が4か月かけて製作された非常に手のかかったもの。

二の丸は、大書院、小書院(こしょいん)、中奥御殿(なかおくごてん)、奥御殿(おくごてん)、台所(だいどころ)などの建物と築山(つきやま)をもつ庭園があり、儀式、執務を行う場と城主の生活空間の場で篠山城で最も重要な場所であった。
 
これらの御殿群の周囲には三層の櫓1棟、二層の隅櫓5棟とそれをつなぐように多聞櫓(たもんやぐら)と門が配置されていた。
 
現在残っている二の丸御殿間取図(にのまるごてんまどりず)や発掘調査の結果から御殿は、江戸時代に何度か建て替えられたり、増築されたりしていたようである。
 
しかし大書院を除く建物は廃藩後には取り壊され、唯一残っていた大書院も昭和19年に焼失し、城郭の建物はすべて無くなってしまっていた。

明治時代に入った1871(明治4)年に篠山城は廃城となりますが、藩主・青山家の旧恩を追慕する人々が青山家の御霊を祀る神社の創建を熱望。

青山家の遠祖・青山忠俊公を御祭神として1882(明治15)年5月に創建されたのが、ここ青山神社です。

篠山城の本丸の場所は築城当初と変わっています。

当初は現在の二の丸が本丸でした。
天守台が造られたことにともなって、ここが本丸になりました。

この埋門、非常時(敵が攻め入った時など)には、土砂などで埋めて塞ぎ、侵入を防ぐことを目的として造られた門です。

埋門を抜け、南内堀沿いを歩いて見学できるルートが整備されているがなぜか今は通行不可となっている。

説明板にもあるとおり、外堀は現存だが内堀について言及されていないのは、内堀は戦後に一度公園化に伴い埋め立てられた(その後 史跡として復元された)経緯があるため。

高石垣で囲まれた本丸と二の丸のすべてに犬走が設置され、その外側には三の丸と水堀が広がっています。

今は駐車場になっている三の丸から内堀と石垣を眺めながら散策。

右奥が埋門、従来はここから南内堀沿いを歩いて見学できるルートが整備されていたが今回、残念ながら通行不可になっていた。

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篠山城址外堀


篠山盆地の中央部、笹山とよばれる小丘陵に築かれた平山城で、篠山藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。

朝の光の中で先ずきれいな外堀からせめる。

大書院も見えている。
遠景には霧も見える。

ドラマでは歌手の石川さゆりさんがお牧を演じるが、果たして丹波篠山で、はりつけにされるのか。

多くの大河ドラマで時代考証を担当した静岡大学の小和田哲男名誉教授は「光秀が母を人質に出したという伝承は、江戸期に始まった可能性が高い」とみている。

本能寺の変の真相は「怨恨(えんこん)説」「天下取りの野望説」「信長の非道阻止説」「黒幕説」など、さまざまな研究があるが、お牧が絡む怨恨説は「近年あまり取られない」と話す。

明智光秀の生まれた年や出生地がはっきりしないように、お牧の生涯についても確かな記録は残っていない。

1996年の大河ドラマ「秀吉」で女優の野際陽子さん演じる母が木にはりつけられ、やりで突き殺される壮絶なシーンは多くの人の心に残っている。

1609年(慶長14年) – 徳川家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。

これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされる。

篠山盆地中心部の丘陵である笹山を築城地と定め、藤堂高虎が縄張を担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成した。

外堀沿いには桜が約1000本、植えられているので、春には多くの花見客でにぎわう。

南馬出、東馬出のように過度な整備は行われておらず、自然のまま最低限の整備(草刈り)が行われているようだ。
馬出の周囲を守る土塁がしっかり残っている。
なお写真はないが、土塁の外側には堀も残っていた。

1873年明治6年) – 城郭の建造物が取り壊され始めた。

二の丸の大書院(おおしょいん)は取り壊しに多くの費用が必要なことや旧藩士の安藤直紀の働きかけで保存されることになり取り壊しから免れた。
城地には役所や学校などが建てられた。

堀に不法投棄される自転車などのゴミや、増える外来種を駆除するために堀の水を抜いて作業するなどして水質を改善する活動が行われている。

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