鉄人28号と三国志の街 新長田


ケミカルシューズの街を象徴するモニュメント、長田の復興を願って。

ふれあい花壇の中のモニュメント。

新長田の駅を出て西側の道路を少し行くと、新長田1番街 TETSUJIN STREETが見えてきます。

どうして神戸新長田が三国志の街になったのか。

それはですね、あの「三国志」で有名な漫画家である横山光輝先生の生地が神戸市長田区なんです。

鉄人街灯。

JR新長田駅南側、若松公園内に設置されている、直立時の設定が18mにも及ぶ「鉄人28号」の巨大モニュメント。

神戸出身の漫画家、故・横山光輝さんの1956年の作品「鉄人28号」に登場するキャラクターを再現したもの。

三国志等身大石像
「関羽(かんう)」(アスタくにづか4番館前)

新長田南地区商店街内に張り巡らされた横山光輝「三国志」のバナーの武将登場人数は128人!総数200枚。
歩きながらお気に入りの武将を探すのも楽しみのひとつ。

張飛と馬超の葭萌関戦い

魏呉蜀の三国鼎立が定まる前夜、確たる領土を持たなかった劉備が成都の太守劉璋(りゅうしょう)の求めをうけ漢中の張魯(ちょうろ)の南下に対して援軍として出撃します。

成都進出への足がかりを作りました。当時、曹操に破れ張魯のもとにいた馬超は劉備軍と戦います。

張飛と馬超は決着がつかず馬超の勇姿を惜しんだ劉備の仲立ちもあり、その後馬超は劉備の下に身を寄せます。

以後、張飛・馬超は蜀の五虎将軍のひとりとなります。

張飛と馬超の葭萌関戦いのフィギュアもあります。

六間道五丁目商店街には、魏武帝廟と三国志館もあります。魏武帝廟内には、4匹の馬に曳かれる馬車に乗った勇ましい曹操の像が。

六間道の三国志なごみサロンの前には関羽の像。

三国志等身大石像「周瑜(しゅうゆ)」(六間道・市営地下鉄駒ヶ林駅入口前)

ビル壁面に描かれた諸葛孔明ブロンズ像の「司馬懿(しばい)」(二葉町4丁目)

三国志の戦闘場面と西遊記のフィギュァ。

三国志と居酒屋水滸伝のフィギァ

地下鉄の改札内連絡通路の壁面には原寸大の鉄人28号のパネルが。

三国志とはこの三国の時代のことを叙述した歴史書が、次世代の西晋に仕えた陳寿(233年 – 297年。元、蜀の家臣)によって『三国志』と名づけられた事に由来します。

その後、唐・宋・元の時代にわたってこの歴史書『三国志』に基づいて、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の前後の時代も含めて、民間伝承などを加えて三国争覇の時代小説として巷間を賑わし、その説話を基にして、明代初期に羅貫中たちが取りまとめ、それが『三国志演義』として成立したのです。

三国志ブロンズ像 「呂布(りょふ)」(アグロ・ガーデンの入口)

大正筋商店街の南端に建つ、等身大、呉の皇帝『孫権』の石像があります。
試剣石を斬った跡をイメージしています。

ジョイプラザの南西角の、新谷英夫《愛》(1983.9.23設置)。神戸長田ライオンズクラブの寄贈。

とにかく退屈しない街です。

楽しそうな催しもあるようだ。

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西日本一の規模を誇る 神戸市立森林植物園のアジサイ


神戸市立森林植物園は三宮から40分ほどの六甲の裏側にある、甲子園球場約36個分の広大な森に咲くあじさいが、初夏の訪れを告げるように約350品種5万株の色彩やかな美しい花々を咲かせます。

これだけのあじさいのスケールは西日本で一番とも言われ、あじさいが咲き誇る季節になりますと、県内外から毎年多くの見物客が訪れるあじさい名所です。

公園正面から続く「あじさい坂」の両側には所狭しとヒメアジサイが美しい花を咲かせます。

六甲山地はあじさいの生育に適したいくつかの条件を備えているといわれています。

六甲山地は海に近く、海風が吹いて水分が入り込みやすい環境です。

三宮などの市街地では晴れていても、山中では雨が降っていたり霧やもやがかかることがよくあります。

「あじさい」とは、アジサイ科に属する植物です。

以前は花の構造などからユキノシタ科アジサイ属に分類されていましたが、DNA構造の解析技術が進んで進化の過程が明らかになるにつれて、アジサイ科として独立させるようになりました。

シーボルトは数ある植物の中でも日本の植物であるアジサイを愛したようで、彼の著書『日本植物誌(フローラ・ヤポニカ)』には、彼が日本で知り合った「オタキさん」という女性の名前からつけられたといわれる「Hydrangea otaksa(ハイドランジア オタクサ)」という学名でアジサイが紹介されています。

ただ、アジサイの学名はシーボルトが命名する以前に「Hydrangea macrophylla (ハイドランジア マクロフィラ)」という名前で発表されていたのでオタクサの名前は認められませんでした。

ちなみに、ハイドランジアは「水の器・水瓶(果実の形が水瓶に似ていることから)」マクロフィラは「大きな葉っぱ」という意味です。

大きな葉をして、水を好むアジサイにぴったりの名前ですね。

ところで開花時期は、5月終わりから6月初旬に咲き始め、6月中旬から下旬にかけまして見ごろを迎えます。

シチダンカの見ごろは6月中旬から下旬、園内の西洋あじさい園に咲く濃いブルースカイの色の彩やかさが美しいクロヒメアジサイは6月下旬から7月上旬が見ごろとなります。

ヒメアジサイ

昭和のはじめ、牧野富太郎博士が植物の採集旅行の際、このあじさいを信越地方で見つけ、その優美な姿から「ヒメアジサイ」と名付けられました。

ホンアジサイとエゾアジサイの交雑種であると考えられています。

手まり形の澄んだ青い花をつけますが、その花房はごつごつした形状になることが多いようです。
形が変わっていく過程でハート形になる時がある。

シチダンカ(七段花)

六甲山の特産種。シーボルトが「日本植物誌」で紹介して以来、日本人のだれもがその実物を見た人がなく、”幻のアジサイ”とよばれて長い間さがしつづけられていました。

1959年(昭和34年)に六甲山系内で「再」発見されました。
装飾花が八重咲きとなり、各がく片が剣状に尖りきれいに重なって星状に見えるのが特徴です。

スミダノハナビ(アジサイ) [墨田の花火]

特徴は、周りの装飾花が八重になっていることである。

装飾花は白から次第に青色がほのかに入る。
花火のように星形の花が飛び出すような形をしている。

キヨスミサワアジサイ(清澄山)

千葉県の清澄山が原産。ヤマアジサイの変種。
よく枝が伸び、直上する傾向がある。

ガク咲きで装飾花の白いガク片の縁に紅色の斑が入り非常に美しい。
また性質が健丈なため、園芸品種の母種となることが多い。

ベニガク

コガクウツギに同じであるが、花の色が初め白色、次に淡紅、最後に紅色となり七変化と云い、額花中随一のものである。

剣の舞

徳島県剣山系産の八重咲きのヤマアジサイ。

別名、剣山八重。花色は薄青色でガク片は細いへら弁になります。
また、茎や葉柄が赤紫色をしています。

みやまやえむらさき (美山八重紫)

京都府北部の美山町「堀越峠」に自生しています。
「ヤマアジサイ」の一品種で、八重咲きなのが特徴です。

5月下旬から6月下旬に、鮮やかな青紫色の花を咲かせます。

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近松の里


JR尼崎駅より北へ約2キロメートルにある広済寺、近松の墓、近松記念館、近松公園周辺を「近松の里」と名づけ、歴史と文化がふれあう魅力あるゾーンとして整備されている。

近松公園は約2ヘクタールに池や、せせらぎなどを配した回遊式の日本庭園で、四季折々の風情が楽しめます。

公園には珍しい品種のアジサイが咲いていました。

近松銅像

近松門左衛門の50代の油ののりきった時代を、資料をもとに、二 紀会の彫刻家 故村上炳人(へいじん)さんが創作した「近松のま ち・あまがさき」のシンボル像。

広済寺(こうさいじ)

多田満仲が957年に勧請したと伝えられ、正徳年間(1711~ 1716)日昌上人が再建。

近松は日昌上人と親交があり、再興にも 力をかす。
その後も、度々同寺を訪れ「近松座敷」で執筆したと言 われています。

近松門左衛門の墓

広済寺の境内にあり、墓石は高さ約48cm程の緑泥片岩の自然 石で表に近松門左衛門と妻の戒名が、裏には没年月日が刻まれ ています。
昭和41年(1966年)9月に国の史跡に指定。

そうりんし【巣林子】は近松門左衛門の号。

伊居太(いこた)神社 (伊居太古墳)

古墳時代中期の前方後円墳で全長約92m、市内に残る古墳の中 では最大の規模。
現在は伊古太神社の境内にあり、原形を失っ ているが、わずかに面影をとどめています。

近松の墓はなぜ二つあるのか。

近松門左衛門は1653年(承応2年)の生まれで(出生地については諸説あり)、本名は杉森信盛、幼名は次郎吉といい、越前・吉江藩士杉森市左衛門信義の次男として誕生する。

元禄年間を中心として、貞享~享保と約40年間にわたり劇作家として活躍し、1724年(享保9年)に72歳で没した。

まず法妙寺のお墓ですが、近松門左衛門の妻が深く関わっています。
法妙寺は妻の生家の菩提寺だったと言われています。
近松門左衛門と法妙寺には直接の関連性はないものの、妻の菩提寺という関係からお墓が建てられたのではないかと考えられています。

次に広済寺のお墓についてです。
広済寺は日昌上人によって開かれたお寺です。
近松門左衛門は日昌上人に深く帰依しており、広済寺との関係は深かったと言われています。

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フォトジェニックな一枚を 阪神電鉄尼崎レンガ倉庫


尼崎城が完成、より一層賑わいを見せる阪神尼崎駅周辺。

そんな中、同じエリアに悠然とたたずむ「阪神電鉄 尼崎レンガ倉庫」。

隠れインスタ映えスポットとしてマニアの注目を集めている。

古くは火力発電所として使用されていた建物。現在は鉄道関係の倉庫として利用されています。赤レンガの趣ある雰囲気が歴史を感じさせます。

阪神電気鉄道が開業した当時、この尼崎発電所と御影発電所で発電された電気を電車の走行に使用していたほか、沿線で一般にも配電していた。
現在は資材倉庫として利用されている。

尼崎市のまちかどチャーミング賞をもらっています。

波打つガラスがレトロ感を感じさせる。

尼崎城天守から一枚。

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平成最後の城 尼崎城


尼崎城は、大物川と庄下川が大阪湾に注ぐデルタ地帯に築かれた城で、尼崎城に直接船が横付けできたことから、海に浮かんだような城であったと言われている。

元和3年(1617年)、戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入封し築いた。3重の堀をもち、本丸には2重の付櫓を2棟付属させた複合式の四重天守と3棟の三重櫓が上げられた。

城主は、築城から廃城まで3氏12代が入れ替わった。

戸田氏の後は、青山氏4代、そして正徳元年(1711年)桜井松平家の松平忠喬(ただたか)が4万6千石で入り、以後桜井松平家の支配が7代と続き幕末を迎えた。
最後の藩主は松平忠興。

ミドリ電化(現在のエディオン)創業者の安保詮(あぼ-あきら)さんが「創業の地に恩返ししたい」と、約10億円の私財を投じて、尼崎城の天守を再建。

もとの場所ではありませんが、現在の尼崎城址公園にその天守が建てられています。

天守から西を望む、寺町の屋根も見える。

桜井神社、旧社格は郷社。
庄下川東岸に位置。

正徳元年(1711年)の転封から幕末まで尼崎藩を治めた桜井松平家(松平氏、明治以降は桜井氏に改姓)の、初代信定から16代忠興までを祀る。

創建は1882年(明治15年)に、旧藩士の有志が歴代藩主の遺徳を偲び、旧尼崎城の西大手橋東詰に建立した。

その後1961年(昭和36年)に国道43号線敷設のため現在地に遷宮したが、本殿及び拝殿は建立当時のものである。

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尼崎寺町散策 善通寺


永禄年間(1558-69)覚阿上人の開基と伝えています。

時宗の四条派金蓮寺の末寺ですが、尼崎は一遍上人遊行の地として深い関わりがあり、近在の時宗寺院の筆頭の位置を占めていました。

寺内には秦武文の碑が建てられ、境内八角堂には首無し地蔵がまつられて信仰を集めています。

当寺は、時宗四条派大本山金蓮寺末三大寺の一寺としてたびたび法主を出した由緒ある寺院。

本堂は宝永3年(1706)の大修理を受けていますが、移築当時の様式をそのまま伝えているようです。

寺内には秦武文(はたのたけふみ、右衛門府の下官)の碑が建てられています。

「後醍醐天皇」の皇子、「尊良親王」は土佐国(とさこく:高知県)の幡多(はた)郡へ配流されたとき、秦武文がお供をしました。

妃を土佐に迎える途中尼崎で海賊のために奪われ、ついに自決した南朝方の忠臣悲話(太平記、「金ヶ崎恋物語」)が伝えられています。(尼崎市教育委員会)

この時期アジサイが見頃です。

【首無地蔵尊由来】
 
今を去る三百年前、善通寺境内に霊験あらたかな地蔵尊がお祭りされていましたがいつの頃にか心無い者が、お首から上をとって庄下川に捨てゝしまいましたので、それから以後、人々は首無地蔵尊と呼び参詣者の絶えることがありませんでした。
 
或る時、此の地に住む一漁師が沖で網打ちをしていたところ、地蔵尊の御首が網にかかりましたので、日頃信心深い漁師はその御首を我家に持ち帰り、朝夕お祭りをしていたところ、或夜、夢枕に相形あらたかな地蔵菩薩が「我は善通寺の地蔵なり、我をば元の座に据え置けば我首は無きものとして首から上の病を治すなり」と一度ならず二度迄も御告げがあり漁師は早速時の住職、学解上人に此の事を申し出て御首を元の座に戻しますと不思議な事に、御首胴が一致したので、上人は此の尊像が尋常でない事を知り広く世の人々の篤志を仰いで地蔵堂を建立して、御尊体を奉祉されたもので、今に至る迄、病気入学老人ボケ等、諸々の願掛けにお詣りする人々は絶えませんでしたが、昭和20年6月1日戦災によって御堂を消失致しましたが御首から上はご無事で残られました。

古くは、海に流されたり余程御首から上に御正念の有る地蔵大菩薩と思われます。
 
昭和37年7月に、現在の檀家、信者の多数の方々の御協力を得て、現在の八角堂が新しく建立されて、お堂内には、其御首が厚く御まつりされて今日に至っております。(資料:善通寺)

【首無地蔵尊御詠歌】
一番
 ひきよせて むすぶ
 心は 首地蔵
 我が手に もれな
 老いも 若きも

二番
 昔より こゝに
 おさまる 首地蔵
 たすけ たまわる
 すがる わが身を

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尼崎寺町散策 長遠寺


長遠寺(じょうおんじ)は日蓮宗の仏教寺院。山号は大尭山。

大本山本圀寺(六条門流)の旧末寺であり六条門流三長(他に長満寺、長源寺)の一寺。
親師法縁。塔頭として中正院がある。

『大堯山縁起』では、1350年(観応元年)永存院日恩により七ツ松の地で創建され、のちに風呂辻町・辰巳(巽)・市庭(市場)(すべて、現・東本町の地名)の地へ移転したと伝えられる。

画像は多宝塔、慶長12年(1607年)建立、方三間2層、本瓦葺、釈迦如来像安置、高さ15.4m 1960年、大修理。

長遠寺は、風呂辻町の南側にあったと推定されている。

西側は当時の尼崎の中心として賑わった市庭である。
七堂伽藍と子坊16坊を持っていたという。

法花寺と呼ばれていたが、1617年(元和3年)に尼崎城築城にともなって現在地に移転した際、寺号を現在のものに改めた。

画像は鐘楼 ― 1627年建立。

本堂は入母屋造、本瓦葺。

柱上の組物や幹屋根の傾斜などに桃山時代の建造美をうかがうことができます。

昭和56~58年の解体修理によって慶長3年(1598)に建立され、元和9年(1623)に当地に再建されたことが判明した。

多宝塔も、棟札に慶長12年(1607)とあり、移築されたものと考えられています。

塔身は円形で幹そりがの形が良く、組物や蟇股などの形態には桃山時代の特徴が良く表れています。
いずれも国の重要文化財に指定されています。

客殿、庫裏、鐘桜の三棟は慶長の頃の重要な建造物であり、指定文化財に指定されています。

その他室町時代の銘をもつ鰐口・雲板、裏書に永録8年(1565)と記された絹本著色涅槃図、元亀3年(1572)~天正16年(1588)にいたる古文書が指定文化財に指定されています。(尼崎市教育委員会)

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尼崎寺町散策 大覚寺


摂津国八十八箇所第65番札所で、現存する尼崎最古の古刹である。

律宗の寺院。山号は月峯山、本尊は千手十一面観音。

寺伝によると、百済の僧・日羅が聖徳太子の命により剣尾山(大阪府豊能郡能勢町)に月峰寺を創建、推古天皇13年(605年)には長洲(尼崎市)に剣尾山を遥拝する灯炉堂を建立したのが始まりと伝えられる。

2月3日 節分祭 – 本堂手前の能舞台で、大覚寺狂言が執行される。
狂言は、明治以後、行なわれなくなっていたが、昭和28年(1953年)に復活した

大覚寺に伝わる56点の、正和2年から天正17年(1313~1589年)に至る間の文書(『大覚寺文書』)は尼崎の中世を今に伝え、兵庫県文化財に指定されている。

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尼崎寺町散策 法園寺


永禄4年(1561年)に没した玉蓮社勝誉恵光法園の創建と伝えられる。

浄土宗鎮西派の寺院。山号は恵光山、院号は謝徳院、本尊は阿弥陀如来。

肥後国人一揆の責任で豊臣秀吉に幽閉された佐々成政が、天正16年(1588年)閏5月14日(7月7日)に当寺で切腹させられ、本堂内には墓石の五輪塔(高さ88.7cm)がある。

成政は豊臣秀吉のもとで肥後国主在任中、領地内で反乱がおこり、その責により天正16年(1588)尼崎で切腹させられた。
山門を入って左側の墓碑は複製で、実物は本堂内に保管されています。

恨みの秀吉のいる大阪城の方向に自らの臓腑を投げつけたと伝えられています。

寺宝として、後陽成天皇(1571~1617)直筆の和歌一首「なき人のかたみの雲やしぐるらん 夕の雨に途はみえねと」の掛軸や成政肖像画などがあります。

特に山門の内に桐、外には菊の紋があり、由緒ある寺院を偲ばせています。(尼崎市教育委員会)

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本能寺の変後、越中に居た佐々成政は徳川家康の決起を促すため富山から雪の立山を徒歩 … 続きを読む →

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尼崎寺町散策 甘露寺


室町時代、円誉上人源永が開いたと伝えられる。
浄土宗、薬王山、沖縄県宮古島に布教所を持つ。

龍の棟瓦や彫刻で飾られた山門をくぐり、重層の本堂を仰ぐと、優美な曲線をもった屋根に金色の鳳凰が参詣者を迎える。

本堂は貞享4年(1687)に15世寂誉上人によって中興され、江戸時代中期の質素で優雅な浄土堂が建立されましたが、平成3年(1991)旧本堂のイメ-ジをとどめて改築された。

もとは大物町にあり、尼崎城築城にともない寺町へ移転した。(資料:尼崎市)

法然上人(1133-1212)は崇徳帝の長承二年(1133)四月七日(太陽暦五月二十日)、美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町)に 押領使 (おうりょうし) (地方の治安維持にあたる在地豪族)である父の漆間時国と、その奥方である母の秦(はた)氏(うじ)のひとり子として誕生され、幼名を 勢至丸 (せいしまる) と名づけられた。

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