桜の名所 三春城跡

三春城跡は、三春町の中心部、標高407mの丘陵地にあり、戦国時代は田村氏、江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城であった。
現在は公園として整備され、桜の名所としても知られている。

別名舞鶴城。

丘陵の中腹地(現在お城坂といわれる登り口付近)には重臣の屋敷が配置された。

お城坂の中ほどにある見事な枝垂桜。

伊達政宗の正室 誕生の地

三春城にまつわる幾多の歴史の中で、多くの人にロマンを感じさせているのが「東北の雄」伊達政宗に嫁いだ愛姫(めごひめ)。

政宗と愛姫が結婚した背景には、三春城下を治めた田村家と伊達家の深い関係がある。
愛姫は1568(永禄11)年、三春城主だった田村清顕(きよあき)の一人娘として生まれた。

田村家は会津の葦名家をはじめ、二本松の畠山家、須賀川の二階堂家などに囲まれ、周辺の大名と対立することが多かったという。

このため清顕は、葦名家と対立関係にあり以前から縁戚でもあった伊達家に接近、愛姫を伊達家総領となる政宗に嫁がせ、両家の関係強化を図ったとされる。

2人が結婚したのは1579(天正7)年冬。
愛姫が数え年で11歳、政宗は12歳だった。

若者同士で当初の夫婦仲は良好でなかったものの、愛姫は政宗の正室となり、女児1人、男児3人に恵まれた。

86歳で死去したが、晩年は政宗と互いに愛情あふれる夫婦生活を送ったとされる。

二の門跡付近には『愛姫生誕の碑』があります。

急な登攀路を登る。

登城路の屈曲部分に設けられた揚土門跡。

続いて現れる三之門跡。
揚土門と同じように屈曲部分に設置された門で、往時の登城路がそのまま残っている。

最後の急登を喘ぎながら登る。

二の丸大手門である大門跡。
門の礎石が残っている。

この二の丸曲輪はかなり広い。この城の二の丸は、ここだけでなく、下の方にも段曲輪になって、 いくつもあるようであった。

後方の削平地が二の丸跡(江戸時代には本丸の一部となった)で、現在は東屋が建っている。

本丸大広間跡。
生憎桜が散ってしまった後だったが、満開時はなかなかの花見スポットであろう。

慶應四年(1868)七月二十六日、三春藩が突然、新政府軍に寝返った。
列藩同盟に参加したものの、三春藩上層部は最初から勤王寄りであった。

五月三十日には、京都に使者を送り、朝廷に救援を要請していた。
七月に河野広中が土佐藩の板垣退助に接触し、新政府軍を三春城内に迎え入れることに成功した。

その一方で近隣の二本松藩や福島藩には使者を派遣して同盟を装っていた。
これに気付いた二本松藩では使者を惨殺した。

三春城址には、この時殺害された四名を慰霊する明治戊辰役三春藩烈士碑が建立されている。

急な山肌に残る石垣。

本丸への道の脇に矢倉跡の標柱。

三春正道館は、明治初期の福島地方における唯一の政治教育の学塾でした。
創立は明治一四年6月頃とされ、場所は旧藩校明徳堂の跡地を利用したものです。

明治の頃の自由民権運動では、板垣退助を中心とする「西の高知」と対比され、後に衆議院議長になった河野広中が中心となり「東の三春」と称され東国自由民権運動発祥の地とされています。

三春町は、滝桜で有名な町で、町のあちこちで目にするシダレザクラが町の木になっています。

マンホールのデザインも、桜の中に「みはる」の「み」をデザインした町章が描かれています。

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三春城跡へのアクセス、行き方歩き方

住所 :田村郡三春町大町

JR磐越東線三春駅~バス/役場前

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