「グリコのおまけ」の一時代を築いた男、宮本順三

大阪府

生み出した「おまけ」は約3000種類


大手菓子メーカー、江崎グリコの看板製品の一つであるキャラメル「グリコ」。

素朴で小さなおもちゃのおまけに親しんだ人は、多いと思います。
おまけ付きのお菓子は、昔から他社も販売してきましたが、「グリコ」が特別感を持って人々の記憶にあるのは、単に元祖だからではありません。
それは、「グリコ」のおまけの黎明期から長きにわたり、その開発に尽力してきた1人の男がいたからです。
その男の名は、宮本順三。


彦根高商も卒業間近になり、順三は就職を考え始めます。
就職先としては「自分の趣味と特技を活かせる職業として、どこか有名ブランド会社の広告課か宣伝部と狙いをつけて」いました。

ちょうど、グリコが新卒採用を開始しており、それを知った順三は、まさに自分の天職だと応募します。


熱意が通じ、順三は採用通知を受け取ります。
1934年12月のことでした。

グリコが創業12年目を迎える1935年、順三はこの若い会社に入社します。

それから1ケ月も経たないうちに、広告課おまけ係として配属されました。
以来約3000種のおまけを生み出します。

1915年大阪府に生まれる。
生まれた時の名前は村田順三だった。
母が病弱だったことから生まれてすぐに親戚の宮本甲造の養子になった。

幼少時から玩具と絵に興味を示していた。


彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)に進学し美術部を創部して自身の名前をもじったZUNZOの号を使用した。

豆玩舎ZUNZOの名前は宮本順三が青春時代を過ごした彦根に由来します。

井伊直弼が藩主となる前に文武両道に励んだ埋もれ木の舎の「舎」と滋賀大学・文芸部での宮本のペンネーム「ZUNZO」から、館の名前を「豆玩舎ZUNZO(おまけやズンゾ)」と決めました。

1960年頃から、画家として諸民族の「祭りと踊り」をテーマに描き、多くの作品を遺しました。

晩年の順三には、夢がありました。

それは、「おもちゃ館を創って、世界のおもちゃと人形などのコレクションを子ども達に見てほしい」というもの。
1998年に大阪セルロイド会館(大阪市東成区大今里)の空いていた3階を活用して、小規模ながらもおもちゃ館をスタートします。
館の名称は「豆玩舎ZUNZO(おまけやズンゾ)」。
ZUNZOは、順三のペンネームです。
この小さな博物館は、マスコミに取り上げられ、遠方からも来館者があるなど、オープン当初からにぎわいを見せ、夢をかなえた順三はとても満足でした。

2002年、豆玩舎ZUNZOは、自宅から近く長年暮らした地元の東大阪市へと移転します。

この頃に奥さんが亡くなり、深い喪失感にとらわれていた順三にとって、ボランティアスタッフの若い人たちを誘って一緒に食事をするのが楽しみでした。

その2年後、肺炎がもとで永眠。

病床での最後の言葉は、「おまけやにいきたい」だったそうです。


宮本の作品(絵画・おもちゃ)や生涯に渡り蒐集した日本の郷土玩具・世界の人形玩具・仮面など民族文化資料を展示。

アクセス

近鉄奈良線八戸ノ里駅下車 南東へ徒歩2分。(バスロータリ横・八戸の里小学校前)