秋深し 司馬遼太郎記念館

大阪府

司馬遼太郎記念館に秋を思う


季節は進みはや11月初旬を終わろうとしている。
きょうは穏やかな日です。
しかし、この時期紅葉はほとんど見られません。

陽を透かした木々の葉がきれいです。

風もほとんど無く、穏やかな秋日和です。

菜の花忌が近づいています


2月12日の菜の花忌にそなえて菜の花が育てられています。

2月12日は司馬遼太郎の命日「菜の花忌」です。

司馬遼太郎は野に咲く花、とりわけタンポポや菜の花といった黄色い花が好きでした。

毎年、司馬さんの命日である2月12日に開催される「菜の花忌」には、地域住民や学校などの協力で、最寄り駅である近鉄河内小阪、八戸ノ里両駅から記念館にいたる道路脇や、民家の玄関先が菜の花で彩られる。

1982年(昭和年)に刊行された『菜の花の沖』にもひも付けられ由来しています

『菜の花の沖』は江戸時代、船商人の高田屋嘉兵衛という人物の生涯を追った歴史小説です。

この日の前後には、1997年以来、毎年、東京と大阪交互にシンポジウムや講演会を開いています。
会場に全国から贈られる菜の花約3500本が飾られ、終了後、入場者にお配りするのが恒例になっている。

今年は大阪の番です。

玄関には早々と参加者募集のポスターが貼られています。

司馬遼太郎のペンネームの秘密


司馬遼太郎にこめられた思い

どのような意味をこめてペンネームに「司馬遼太郎」とつけたのか気になるところですが、大学時代に司馬遼太郎が、「司馬遷(しばせん)」という人物が書いた「史記」という中国の歴史書に夢中になっていたことに由来しているようです。

諸説ありますが、司馬遷の「史記」に感動し、自分も素晴らしいものを書きたい!と思いましたが、司馬遷には「遼(はる)か」に及ばない、日本人という思いから「司馬遼太郎」と名付けたと言われています。

ペンネーム一つにも、司馬遼太郎の熱い想いが感じられます。

そんな司馬遼太郎ですが、1996年に息を引き取りました。

6万冊に及ぶ多くの蔵書、資料、執筆に使用した書斎が晩年に使用した時のまま残されており、書斎は庭から見学することができる。

その庭は司馬遼太郎が好んだ雑木林をイメージしたものである。

福田定一青年を癒しの世界に導いたもの


1945年の夏、福田定一青年を癒しの世界に導いたのは、栃木県佐野市で見かけた1本のスズカケの木であった。

司馬遼太郎こと福田定一青年(当時22歳・少尉)は、当時所属していた戦車部隊が駐屯していた栃木県佐野市の植木国民学校で終戦を迎えた。

その校庭に生えていたスズカケの木を眺めながら、どうして日本は戦争を始めたのであろうか?日本人はバカな民族ではないはずと自問自答を繰り返しながら、幕末、明治維新以降の日本の歴史を鑑みながら、歴史小説家として、戦後の日本社会の矛盾と対決しながら、孤軍奮闘、必死に生き抜いてきた。

2017年の春に佐野市の植木小学校校庭にあった、そのスズカケの木は倒木の恐れがあるため、という理由によりついに伐採された。

植野小学校にあったスズカケの木の2代目が、東大阪市の司馬遼太郎記念館で今もその命脈を受けつないでいる。

建築家の安藤忠雄さんが設計した記念館は、司馬さんの死去から5年後の平成13年11月に開館した。

庭には司馬さんが愛したクスやクヌギ、シイ、季節ごとに菜の花やニホンタンポポなどの草花が植えられ、成長した草木が開館から20年がたった記念館を包み込む。

夕方ともなると雑木林を通した西日が差す。。

西日を受け静かに暮れていく。

すっかり美落ちてしまいました。

暮れかけた道を小阪駅に急ぐ。

空の表情、雲の形、色、色々と楽しみながら暮れかけた道を急ぐ。

暮れかけた街に家の明かりがあたたかい。
今日も一日いい日だった。

さぁ司馬遼太郎の世界へ


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司馬遼太郎記念館へのアクセス

■近鉄奈良線「八戸ノ里駅」下車 徒歩約8分

■近鉄奈良線「河内小阪駅」下車 徒歩約12分