桜満開の住𠮷川畔を散策

大阪府

サギのいる住𠮷川畔を散策


桜満開の住𠮷川畔、陽気に誘われ散策する。

この地はサギの多いことで有名だ。
サギのいる風景でブログを書いている。
アオサギの子育てを見ていただくと状況がよくわかります。

親子ずれが桜を楽しんでいます。

多くの人が散策を楽しんでいます。

住吉川 (すみよしがわ)は、 大阪府 大阪市 を流れる 淀川 水系 の河川。

別名は 細井川 、 細江川。 木津川 の支流。

大阪市 住吉区 と 住之江区 を西流し、 旧淀川 の支流である 木津川 に注ぐ。
上流部の 住吉大社 付近を細井川と呼び、かつては細江川とも古称された。

現在は 阪堺電車 「細井川停留場」に名を留める 。

川の水源地って、山奥とかとんでもない田舎とか、そういうイメージがありますね。

ところが、水源が大阪市内、しかも住吉区内という川があります、その名も、「細井川」(細江川とも言います)。

この辺りは住吉大社界隈です。

保育所の子たちが花見に来ています、かわいいね。

上町台地南縁を流れ、住吉区と住之江区の中央部を西流、住之江区柴谷1丁目・平林北1丁目の境で大阪港南港に通じる。

平林の貯木場の手前で北に向かって穿たれた運河があり、敷津運河と呼ばれているが実際は住吉川である。これが木津川最下流部左岸に通じる。

この辺りは住吉大社のおひざ元。

「住吉」の読みは、現在は「スミヨシ」だが、元々は「スミノエ(スミエ)」だった


例えば奈良時代以前に成立した『万葉集』には「住吉」のほか「住江」「墨江」「清江」「須美乃江」という表記も見えるが、平安時代に成立した『和名抄』にはすでに「須三與之」と記されている。

本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」「墨江」「清江」「住吉」等の表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解されている(類例に日吉大社〈ヒエ→ヒヨシ〉)。

ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌枕としての扱いでは、「スミノエ」は江を指し「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すと歌学書にはある。

元々の読みである「スミノエ」の語義について、『摂津国風土記』逸文では、筑紫からお連れした住吉神がこの地に住むと言ったため、神功皇后が「真住吉住吉国(まさに住み吉き住吉国)」と讃称したことに由来とする地名起源説話を載せている。

一方で歴史考証学上では、「清らかな入り江(=澄み江)」を原義とする説が有力視されている。

実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったと見られ、古代にその地に整備された住吉津(墨江津)は難波津とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立や発展に深く関わったと考えられている。












姫松橋より下流を見る、見えている橋は「真澄橋」(ますみばし)

我見ても ひさしく成りぬ 住の江の
岸の姫松 いくよへむらむ
(古今集九O五番 よみ人しらず)

この歌にあるように、かつてこの付近は美しい松原の続く海岸で、住吉浦とよばれていた。毎年春には、潮干狩りで大いに賑わったといわれる。

江戸時代の中頃には新田を開発するため、両岸の入り江が埋め立てられ川として残されたものが現在の住吉川である。

姫松は、住吉大社社頭にある松の美称として知られ、当地の地名にも残っており橋名もこれにちなむものである。

今の橋は昭和60年に架け替えられたもので常夜灯をイメージした親柱や簡素で清潔感のある高欄など、この橋が当地のシンボルとなるよう工夫をこらしている。

姫松橋より上流を見る、突き当りは細江川(細井川)だ。


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