大評判をとった恋物語も今は昔 野崎観音参り

大阪府

恋物語も今は昔 野崎観音参り


住道に友人の写真展を見に行ったついでに一駅足を延ばし慈眼寺(野崎観音)を訪ねた。

昭和初期の大ヒット曲『野崎小唄』で歌われる当寺は、野崎観音と親しまれる十一面観世音菩薩(平安中期)をご本尊とする、曹洞宗の禅寺です。

行基菩薩によって約1300年前の天平勝宝年間に開山され、古くから北河内(大東市・四条畷市・守口市・枚方市・寝屋川市・門真市・交野市・大阪市鶴見区)をはじめとする大阪の人々の信仰を多く集めてきました。

ご本尊は白檀の一木彫りで身の丈は約130㎝、一匹の龍が取り巻く台座の上に立っておられます。

江戸時代より浄瑠璃や歌舞伎、落語の舞台としても数多く登場し、昭和初期に東海林太郎さんが「のざきまい~りは~、屋形船でまい~ろ♪」と歌われた『野崎小唄』で、広く全国に名を知られるようになりました。

大般若祈祷の『のざきの観音さん』として安産や子授かり、初まいり(宮まいり)や七五三、厄除け、新年の祈願など人生の節目での様々な御祈願に多くのお参りがあります。

開基は行基菩薩


野崎観音は、福聚山慈眼寺といい禅宗のお寺です。

今から1300年ほど前、天平勝宝年間(749〜757年)に大仏開眼のため来朝した婆羅門僧正が「野崎の地は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(ハラナ)によく似ている」と行基様に申されました。

感動された行基様は、観音様のお姿(十一面観音)を彫みこの地に安置されましたのがこのお寺のはじまりです。

仏教の民間布教や社会事業に打ち込み、奈良の大仏造立にも奔走した行基のリンク集

大阪の東端、生駒山系飯盛山の麓にある山寺で、飯盛山ハイキングコースの入り口として、多くの人々に親しまれています。

また本堂も法要がない時はお上がりいただいてお参りできます。
緑豊かな静かな時間が流れる大阪から一番近い山寺です。

大変見晴らしが良く、大阪市内のビル群を手前に条件が良い日は、遠くは淡路島まで見えることもあります。

約150段の石段を上る


約150段の石段を上ると本堂・江口の君堂をはじめ、たくさんのお堂が立っています。

三好・松永の兵によって全焼し、本尊の観音様だけが残りました。


幾多の戦乱のため荒れはて、1565年(永禄8年)三好・松永の兵によって全焼し、本尊の観音様だけが残りました。

長い間、小さいお堂のままでおまつりしてありましたが、元和2年(1616年)青厳和尚がこのお寺を復興され、元禄宝永ごろに「のざきまいり」が盛んになると共に、お寺も栄え、現在に到っています。

階段下でかわいい猫を見かけました。

寺伝によれば、天平勝宝年間(749-57年)に大仏開眼のためインドから来朝した婆羅門僧正に当地が釈迦が初めて説教した鹿野苑(ハラナ)に似てることを聞いた行基が観音菩薩像を刻んで安置したのが始まりといい、平安時代に江口の遊女によって再興されたと伝えられる。

1565年(永禄八年)に松永久秀と三好三人衆らの争いに巻き込まれて焼失したが、1616年(元和二年)に曹洞宗の僧青厳が復興して徐々に参拝者を集めるようになった。

約150段の石段を上りきったところでも二匹の猫がいました、どうも兄弟のようでよく似ています。

登りきったところから大阪市内が見渡せます。

山門(西門)

大師堂

野崎参り

元禄時代から伝わる行事「野崎詣り(のざきまいり)」は、正しくは無縁経法要というもので、生きとし生けるものすべてに感謝のお経を捧げる伝統行事です。
江戸時代から300年以上も長く続き、落語の「のざきまいり」、東海林太郎の「野崎小唄」、「お染久松の恋物語」などで広く知られています。

かつては舟で行く人と陸で行く人とで罵り合って競り勝てば一年の幸を得られたという俗信があり、この時期になると周囲はとても賑わっていたと伝わっています。
毎年5月1日~8日までの期間に開催されており、現在もJR野崎駅からお寺に続く参道には数多くの露店が並び、多くの参詣者で賑わいます。

『のざきまいり』のはじまり
元禄時代、曹洞宗になってから五代目の大真慈門和尚が寺門興隆を願い参詣誘致に努め、それまで秘仏であったご本尊の特別開帳をおこなったことがはじまりです。
当時の大坂の商人層から篤く信仰を受け、大変な賑わいをみせました。

屋形船の風景


屋形船は大阪城の北にある八軒屋浜から寝屋川を遡り徳庵から住道を経由して、現在の野崎駅の南の観音浜まで運行されていました。江戸時代はじめまで、深野池と呼ばれる大きな池が大阪と野崎の間にありました。
1740年に大和川の付け替え工事が行われ深野池は干拓され新田開発が盛んになり、それまでの池が陸地となり、その中を水路が通り船や徒歩で少ない時間で往来が出来るようになりました。

天満橋の八軒家浜から約17kmという近すぎず遠すぎず、日帰り行楽地としては絶好の距離となり、新しく干拓された陸地の中の水路を大小の船、または土手を歩いてお参りする道中は目新しく楽しかったことでしょう。

明治28年に片町線が開通してからだんだんと川は人の生活から離れたものとなり、昭和の初期にはほぼ船は無くなったそうです。

残念ながら現在では屋形船をはじめ、『野崎小唄』の風景はなくなってしまいました。

竜宮作りの楼門
この門は車でお詣りに来られるための、駐車場が下にあります。

車で来る人はこの門から入ります。

本堂

本尊十一面観音菩薩を中心に脇侍仏として、普堅菩薩と文珠菩薩をおまつりし、両脇に持国天、多聞天、広目天、増長天の四天王がご本尊をお護りしております。

旧の本堂は昭和9年に室戸台風によって破損しましたが、十九世尾瀧一峰和尚が北河内一円を托鉢し多くの方々の浄財により、東大阪日下の大龍寺(黄檗宗)の禅堂を譲り受けてここに解体移築し本堂としました。

棟木には約320年前の元禄2年の銘があります。

御本尊十一面観世音菩薩像(平安時代中期)

白檀の一木彫りで、渦巻く波間に躍動する龍の背に立ち、穏やかなやわらかい眼差しでお参りの方々を迎えてくださいます。

半眼の穏やかな表情が眠っているようにも見えるため居眠り観音とも呼ばれています。

西国霊場三十三か所を決める観音様の集まりがあった際、居眠りをして遅刻をしたため西国霊場に入れてもらえなかったそうです。

境内に奉納された安産の犬のお守り。

賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ・ビンズルさん)

お釈迦様のお弟子さんの一人です。
神通力を使って人を驚かせてしまったため、お釈迦様に本堂の外、人の手が届く所に座るように言われ、ここに  座っていらっしゃいます。

撫で仏としてご病気や痛い所、良くなりたいところを 引き受け治してくださいます。

平成29年の台風で転んで大怪我を負い、長期療養されましたが、多くの方々の篤いご寄進により、すっかり元気でお綺麗になって戻って来られました。

その時に、宝暦3年(1753年)産まれの260歳以上のご高齢であることも判りました。

江口の君堂

当寺の中興開基江口ノ君光相比丘尼として本堂の右隣の君堂におまつりしております。

平安時代の方で、淀川の右岸(現東淀川区)江口の里の白拍子(歌舞を演じる遊女)です。

江口の君は平資盛(たいらのすけもり※平清盛の孫)の娘と伝わる「妙」という遊女のことで、戦火などにより幾度も荒廃に晒された野崎観音の中興の祖として知られています。

病を十一面観音様に治して頂いたお礼に当寺を再興されました。

その後、多くの女性の方々が江口の君にあやかろうと観音様にお参りされるようになりました。

妙の君・きみさんとして大阪の女性に親しまれてきました。

安産・子授け・病気平癒・縁結びなど、あらゆる女性の願いをお聞きくださいます。
毎月十四日はご縁日となり午前中、祈願やいとがあります。

☆四月十四日は大祭が行われ、君堂で特別祈祷法要が 厳修されます。

江口の君堂 西行と江口の君を偲ぶ

役行者は、奈良時代(710年〜784年)に活躍した僧侶であり、修験道の開祖としても知られています。

彼の生涯は634年から701年頃とされていますが、正確な年代には諸説あります。
役行者は、山岳修行や神仏習合の宗教運動に深く関わり、日本の宗教文化において重要な位置を占めています。

薬師堂

薬師如来は、心身の病気を治してくださる仏様で、病気平癒・身体健全・延命長寿の功徳があると言われています。

野崎観音ホームページ


庭園に向かいます。

お染久松の物語


お染久松の塚

お染久松を主題にした近松半二「新版歌祭文」をはじめ、近松門左衛門「女殺油地獄」、落語「のざきまいり」、東海林太郎「野崎小唄」などに登場し広く名前を知られました。

境内にはお染久松の比翼塚(供養塔)があります。
またお染久松の物語は、野崎会館横に絵物語があります。

近松半二作「新版歌祭文」~野崎村の段~より
野崎村の久作には、養子の久松(ひさまつ)と、女房の連れ子のお光(おみつ)がいた。
久作は気立ての優しいお光を、久松の嫁にしようとしていた。

一方、久松は奉公に出た大阪の油問屋の娘、お染(おそめ)と知り合い、恋に落ちる。
それをねたまれ、久松が油問屋から帰されてきたので、久作は早速久松とお光の祝言を挙げようとする。

久松のことを以前から慕っていたお光が婚礼の支度をしている所へ、大阪からお染が「野崎まいり」にかこつけて久松に会いに来た。

久松との関係に気付いたお光は、お染を追い返そうとし、久松と言い争いになる…。
養父への義理から別れ話を持ち出す久松と二人きりになったお染は、自害しようとする。

それを見て、久松は二人で死ぬことを約束する。
そこへ、事の成り行きをみていた久作に人の道に反していると諭され、二人は別れを誓うが、お互い心中の覚悟を決めていた。

祝言の席でお光が綿帽子を取ると、髪を切り尼の姿になっていた。
お光は二人の心を察し、自分が身を引けば、二人が幸せになれると考えたのだった。

それを見ていた、お染の母親お勝(おかつ)はお光に礼を述べ、二人の仲を認め、二人は油屋へ帰っていく。
二人の無事を祈り、その姿を見送りつつ、お光は泣き崩れるのであった。

野崎参りが描かれた汚水用カラーマンホール蓋。

デザインの元は浪華勝概帖第二帖より「野崎観音詣」のようだ。船上の人物とのやりとりがあるようで、それだと上方落語「野崎詣り」の要素を採り入れた部分もありそうだ。

アクセス

電車でお越しの方

JR学研都市線(旧片町線)野崎駅東口より参道商店街を通り約600m
石段を上り境内
徒歩約12分


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