悲劇の幼帝安徳帝内裏跡伝説地

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それは山陽電鉄のガードをくぐり歩きづらい急な坂道を登りきったところにある。
東西を深い谷に刻まれ、鉄拐山の急斜面に守られた要害の地だ。

安徳天皇は平清盛の娘、建礼門院徳子を母として生まれ、壇の浦の戦いで平家滅亡とともに祖母二位尼に抱かれて海に身を投じた悲劇の幼帝。
源氏に追われた安徳帝は平家に奉じられて上洛する途中、一の谷に一時内裏を置かれたと伝えられる。

安徳天皇の冥福を祈ってこの地に安徳宮が祀られている。
元禄年間には芭蕉がここを訪ねている。
一説には1184(寿永3)年の一ノ谷の戦いの際に内裏が置かれた場所とも伝えられている。

南面が海、東西を深い谷に刻まれ、北面が鉄拐山の急斜面に守られたこの地は、いかにも平氏の本陣にふさわしい場所。
ただ一ノ谷合戦の際は、安徳帝内裏は船上にあったという説もある。

モルガン灯籠
この一対の灯籠は、モルガンユキ(京都の美妓「雪香」旧姓加藤ユキで、明治37年日露戦争の始まる直前にアメリカの大富豪モルガン家の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに熱望され国際結婚をした人)がこの辺りが異人山と呼ばれた頃この東に住んでいた。

信仰心のあついユキは宗清稲荷・安徳宮の社前に二基の石灯籠を献納した。
一基に加藤コト、モルガンユキと母子の名を並べて刻み、一基は明治44年9月10日と刻まれている。
   平成13年(2001年)3月
  史跡保存会(現地案内板より)

モルガンお雪は「アメリカ人の恋」の主人公の祇園芸妓で,日露戦争のさなか4万円という莫大な額で落籍されてアメリカへ渡る。
国中が沸きかえった事件。

真理胡弁財天
御祭神 真理胡弁財天(龍神)
安徳帝は平家物語にあるように「海の下にも都があります」との二位の尼の言葉と共に千尋の底へ鎮まれました。

海の下の都とは龍宮であって、龍宮の主は龍神であり安徳帝の御守護神であると伝えられております。
御神徳 福徳開運  難病平癒  子授安産  諸願成就  芸能上達
年祭 7月8日
     平成13年(2001年)3月
         史跡保存会(現地案内板より)

一の谷公園
源平一の谷合戦の時、平清盛の娘の建礼門院徳子を母とする安徳天皇の内裏があったところ。
真理胡弁財天、安徳宮、なぜか皇女和宮像、「安徳帝内裏跡伝説地」の石碑が並んでいる。

須磨一ノ谷 皇女和宮像
この像は、ここより山上へ300mの山の中にある寄手墳・身方墳の側に人知れず寂しくあられたのを平成12年12月にここに移しした。
なぜこの像が山中にあったのかは不明である。

和宮様は、仁孝天皇の第八皇女で6才にして有栖川熾仁親王(別荘が後の舞子ビラ)と婚約をされ、むつまじく育たれた。

しかし、幕末に朝廷と幕府との関係を改善し国論を統一せしめるため、幕府の強い要請で和宮様は有栖川熾仁親王との婚約を破棄し、17才で徳川幕府の14代将軍家茂に嫁がれた。
惜しまじな 国と民との為ならば 身は武蔵野の露と消ゆとも

その後、有栖川熾仁親王総指揮の官軍が江戸幕府へ総攻撃をかけようとしたが、和宮様は嘆願し、江戸の町を戦火から救われた。

昭和3年に神戸市各小学校に二宮尊徳像を寄贈した中村直吉氏は外遊で西欧の女性たちの質素で勤勉な姿にふれ、日本女性の伝統ある美徳保持をいつまでも願い昭和9年に県一(神戸高校)、県二(夢野台高校)、市二(須磨高校)の三学校に和宮像を寄付した。
この像は戦争中の金属供出から免れたその内の一体だと思われる。

他の像と比べ憂いを含んだ物悲しい少女の雰囲気が表れている。
この度、多くの方々のお力添えで、ここ安徳花壇の側に和宮様をお迎えすることができたのは非常に喜がしい限りであります。
     平成13年(2001年)3月
        一の谷町二丁目自治会(現地案内板より)

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