思い出したくない記憶をたどる
明石海峡は美しく輝いていました。
1995年(平成7年)1月17日(火曜日)5時46分52秒激しい揺れに目を覚ました。
発生当時は第二次世界大戦後の日本において最悪の被害であった。
断層の真上にあったアスファルト道路は、上下に50cm、右方向に最大1.3mもずれました。
記念館には発生当時の様子が事細かく展示されている
通路を抜けると、地表に出てきた国指定天然記念物「野島断層」が広がります。
約10kmある野島断層の一部140mの上にカバーするように保存館が建ち、当時のまま断層が保存されています。
阪神・淡路大震災で現れた野島断層の中で、いまも地面のズレをはっきりと見ることができるのはこの断層保存ゾーンだけです。
断層面の画像、ずれがよくわかる。
阪神高速もズタズタでした
阪神大震災の被害の象徴ともいえる阪神高速道路3号神戸線の倒壊現場。
神戸市東灘区の深江地区で、635メートルにわたって17の橋脚が横倒しになり、隣接する国道43号に崩れ落ちる。
高速道路の安全神話を根底から覆す被害を受けて、復旧は国家プロジェクトともいえる規模で進められた。
全国から重機や資材が投入される突貫工事により平成8年9月30日に完全復旧、震災から622日が過ぎていた。
「神戸の壁」
6434人が亡くなった1995年の阪神・淡路大震災から、2017年1月17日で22年となる。
兵庫県内を中心に建造物の倒壊や火災などで甚大な被害が出たが、再開発が進み、被災地の風景も様変わりした。
そんな中、神戸から淡路島へと移され、震災の記憶を伝え続けている遺構がある。
神戸市長田区を襲った大火で焼け残った防火壁「神戸の壁」だ。
高さ7.3メートル、幅13.5メートル、厚さ23センチもあるコンクリート製の壁は、1927年ごろ、公設市場の防火壁として建てられた。
それから、45年の神戸大空襲、95年の震災と2度の大きな火災に耐え、現在は、兵庫県淡路市の北淡震災記念公園内で、その姿をとどめている。
北淡淡震災記念公園の中にあるハートのオブジェ「北淡の夕日:明日の希望」
海を見渡す小高い丘の上にあるので、海をバックにフォトジェニックな写真が撮影できます。播磨灘に沈む夕日は絶景です。
ハートのオブジェのすぐ横にあるピラミッド型のオブジェ「べっちゃないロック」
「べっちゃない」とは、淡路島の方言で「大丈夫」や「たいしたことがない」といった意味の言葉です。
阪神大震災 私の記憶
1995年(平成7年)1月17日(火曜日)5時46分52秒激しい揺れ、本箱などが倒れ辺りに散乱した。
かたずけはあとですることとし、とりあえず会社に出社。
昼前だったと記憶しているが、芦屋市に住む弟から携帯に連絡があり、弟の家が被災し、嫁が倒壊したブロックの下敷きになり死亡したと。
そして、西宮市に住む両親の家も被災しているという。
車で芦屋に向かうが香櫨園の辺りで道路が30センチくらい隆起していて通行不能。
近くの路地に車を止めて、徒歩で現地に向かう。
とりあえず弟の嫁の葬儀をしなければならないが火葬場も震災で倒壊し葬儀は不可能。
大阪で葬儀をすることとし、会社へ電話し葬儀会社を探してもらう。
市役所の手続きが手間取った、大阪で葬儀するため死亡届を私に変える必要があるが、変更のために印鑑が必要だという、バカ言え、こんな時に印鑑持ち歩いている奴がおるか。
死亡届の届人を二本線で消し、拇印を押した、役人はこんなもの受け付けられないという。
色々とやり取りしたが埒があかない、もう実力行使しかない。
そうこうしているうちに大阪からの霊柩車が到着、大阪に遺体を移し葬儀をすることとする。
火葬場では時間外になり今日は火葬できないという、「おんぼ」に金をつかませ何とかギリギリ火葬にこぎつけた。
芦屋の市役所から始まり、随分荒っぽいことをしてきたが、そうしないと前へ進まない、結局、火葬がすべて終わるのに数カ月かかったと聞いた。
それからは弟と両親の生活の再建だ、被災地へ通う日が続いた。
戦場のような被災地から電車で梅田駅に着くと何もなかったのような華やかな雰囲気、暫くそのギャップに悩まされた。
被災地では弟のテントの近くで阪神の村山投手が車で生活していた。
思い出したくない遠い日の記憶です。
宿泊施設を探す
おすすめの旅行プラン
日本100名城巡りを始めて足かけ3年、足でたどった 名城を訪ねる旅
この記事に掲載されている情報は、公開時点のものです。