土佐街道散策


壺阪山駅前、少し早めに来たので付近を少し散策しよう。

少し雨模様の天気、今は陽が射しているが先ほどまでは降っていた。

高取藩2万5千石の城下町として栄えた高取町のメインストリート。

当時は500軒もの商家が軒を連ねたといい、今も低い軒先や連子窓といった古い家並みの随所に、往時の繁栄ぶりを偲ぶことができる。

両脇に水路が流れる街道の石畳には、阪神淡路大震災の復旧工事で出た石が活用され、所々に埋め込まれた薬草タイルを見て歩くのも楽しい。

明治時代に取り壊されてしまった高取城の門を移築したのが高野山真言宗の寺院「子嶋寺(こじまでら)」。

山門は、高取城の二の門を移築したもので、これが唯一現存する高取城の遺構です。

奈良時代以前の創建を伝えるが、草創の時期や経緯については複数の説がある。

現在の子嶋寺は近鉄壺阪山駅近くにあるが、各種史料に「子嶋山寺」と見えるところからも、創建当時は山間部に位置していたと思われる。

平安時代中期には一時衰退し、興福寺の僧・真興(しんごう)によって中興された。

寺号は古くは子嶋寺または子嶋山寺、真興による中興以降は「観覚寺」、近世には「千寿院」と称されたが、近代に入って「子嶋寺」に復称した。

子嶋寺付近の地名を「高取町大字観覚寺」というのは旧寺号に由来する。

『子嶋山観覚寺縁起』(江戸時代中期成立)によると、子嶋寺は平安時代中期頃には一時衰退していたが、永観元年(983年)、興福寺の僧真興が入寺して中興し、子嶋寺の子院として山下に「観覚寺」を建立し、真言宗子嶋流を始めたという。

法相宗を主として八宗兼学の寺であった子嶋寺はこの頃から真言宗の道場として栄えるようになり、「観覚寺」と称されるようになった。

同縁起によると、最盛期の子嶋寺(観覚寺)は21の子院が立ち並び、現在の高取町と明日香村にまたがる広大な境内地をもっていた。

藤原道長の日記『御堂関白記』によれば、寛弘4年(1007年)には道長がこの寺に参詣している。

光永寺

三匹の邪鬼に支えられた石水盤

光永寺人頭石

饗宴の場の装飾として造られたともいわれる石造物で、光永寺の前庭にあります。

斉明女帝の宮を訪れた外国人の顔でしょうか。

花崗岩に彫られた大きな鼻と耳、前に突き出した顎が特徴的です。

吉備姫王墓に置かれている4体の猿石と同じ石造物と考えられています。

斉明女帝は飛鳥で多くの石造物を造っており、その性格はまだ不明ですが、古代人との謎解きをするのもおもしろいかもしれません。

街道に土佐の名が付く由来は、飛鳥時代の初期にまで遡る。

大和朝廷の都造りに駆り出された土佐(高知)の人々が帰郷できず、この地に住み着いたことが起源とされている。

土佐の名は古くから住民に愛着がもたれており、明治22(1889)年に町村が合併した際には「高取」か「土佐」かで村名が争われたほどである。

高取山を正面に望む細長い城下町は、現在の上土佐と下土佐を中心に発展。

寛永7(1640)年に植村氏が藩主となって以後、山城での生活は不便と藩主や家臣の屋敷は街道筋に移された。

ほとんどが平屋の商家と町家は、2階部分を屋根裏程度の空間に留めた「つし2階建て」。

殿様を見下ろさないよう虫籠窓が設けられ、家々の隙間は壁で塗り込めたり、板を張って行列を襲う者が忍ぶことを避けた。

城下町の風情を一層高める石畳は、平成7(1995)年の震災後に行われた復旧工事の際、大量に出土した阪神国道線の敷石。埋め込まれたタイルには9種の薬草が描かれ、薬の町としても賑わった高取の歴史を伝えている。

土佐街道の「信楽寺」には、その物語の主人公である沢市・お里の夫婦の墓所があります。

一般的には、壺阪寺に祀られていると思われがちですので、土佐街道沿いに墓所があるとは、ちょっとした驚きですね。

臼井家はもと高市郡高取町に所在。

代々伊勢屋と号し、酒・醤油の販売を営み、大年寄りや高取藩の公用伝馬の役も勤めていたとされています。

町の木「カエデ」と町の花「ツツジ」が描かれたマンホールです。

土佐街道 高取町の町を散策
高取町の「土佐」は飛鳥時代、都造営のために連れて来られた土佐(現在の高知県)の人 … 続きを読む →

高取・土佐街道 「町家の雛めぐり」
2007年から、始まった「町家の雛めぐり」は、今回で8回目。 100カ所の会場で … 続きを読む →

関連記事


≪バスツアー/テーマのある旅特集≫クラブツーリズムお勧めツアーこちら!